池田武邦先生のこと その2 | 千年の街から~ハウステンボス便り~

千年の街から~ハウステンボス便り~

小説「千年の街~ハウステンボス物語~」の著者・蒼木凜々のブログです。(ハウステンボスはパワースポット)と信じる著者が自作の小説の聖地巡礼やハウステンボスを紹介するブログです。

こんにちは。

 

今日のブログは、昨日に引き続き、建築家 池田武邦先生についてです。池田武邦先生は、元大日本帝国海軍の軍人で、戦後は建築家として日本の高度成長を建築の立場から牽引してこられた方です。

 

バブル期後半は、ハウステンボスプロジェクトの中心メンバーの一人として活躍され、以降は建築家としての目線から、地球の環境問題や行き過ぎた開発から自然回帰へのシフト転換、また古来から自然と共存してきた日本の伝統技術や文化を見直すなどの問題提起をしてこられ、講演や執筆活動など精力的に取り組まれてきました。

 

池田先生は、私の小説「千年の街~ハウステンボス物語~」の巻末に推薦文を寄稿してくださいました。

そんな大恩人である池田武邦先生との出会いは、前回のブログに書いています。

 

私が池田先生と知り合ったとき、池田先生ご夫妻は西海市の海辺の庵にお住まいでした。

池田先生には、古くからお付き合いのある方々がたくさんいらっしゃって、中には家族同然の方もおられました。私が池田先生ご夫妻に可愛がっていただいたのは、ほんの数年ですし、私はそんなに親しい間柄とはいえないです。池田先生ご自身も、私を覚えておいでかわかりません。

ですが、池田先生が心血を注いで作られたハウステンボスを舞台にした小説を私が書いたというご縁で、とても中身の濃い時間を過ごさせてもらいました。

時には、私の遠慮のなさと、好奇心ゆえに、池田先生の思わぬ一面をみせてもらったこともありました。

池田先生ご夫妻が東京に戻られた今では、とても良い思い出です。

 

その中で今日は、今でも私の心の中に強く残っているエピソードをご紹介したいと思います。

 

佐世保市のNPO「大地といのちの会」を通じて建築家の池田武邦先生と知り合って間もない頃、紹介してくれ知人のAさんから、一緒に邦久庵にいかない?とお誘いがありました。

邦久庵とは、当時、池田先生ご夫妻が住んでおられた西海市の琵琶の首鼻という海辺にある庵の名前です。

武邦の邦、奥様久子さんの久で邦久庵。

茅葺き屋根で、釘を一本も使わないおうちです。

今は、邦久庵倶楽部という団体が保全管理をされています。

 

 

 

 

海にウッドデッキが張り出し、居間兼客間には囲炉裏があります。

Aさんは、邦久庵にお邪魔する前に、予習としてビデオテープをかしてくれました。NHKハイビジョン特集「日本の風景を変えた男たち」という番組でした。私はこのビデオを見て、とんでもない凄いかたと知り合ったものだと感動し、同時に畏れをも感じました。

それから数日後、Aさんと友人、私と妹(Aさんは元々、私の妹の友人です)の5~6人で邦久庵を訪ねました。

 

その夜、私は初めてじっくり池田先生のお話を聞くことができました。

主に、ご自身の戦争体験のお話でした。

マリアナ、レイテ沖など南方における海戦の話、戦艦大和と共に最後の沖縄特攻に出撃する話など。

池田先生は軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」に乗っておられました。最初は艤装員として。進水式の話も印象的でした。

軍艦建造は極秘の計画だったため、進水式では皆が無言で、矢矧という船名すら口に出してはいけなかった。だから矢と萩の絵が描かれた盃が全員に配られ、無言のまま御神酒を飲んだのだと。

池田先生が盃を両手に持ち、御神酒を飲む作法をしてみせてくれました。その凛とした佇まいは、今も印象に残っています。

 

その後は、測的長として任務に当たったそうです。

南方の海戦では、矢矧も攻撃を受け、池田先生がいた艦橋も大きな被害となりました。海軍兵学校の同級生も亡くなったそうです。周りは爆撃で半身が木っ端みじんになった遺体や、吹き飛ばされた腕や足、負傷した兵士や亡くなった兵士の遺体が転がっていました。辺りは血の海。船の揺れに合わせて、床を血の波が打つ。まさに修羅場だったと。

食事の乾パンも血しぶきがかかって食べられたものじゃない。

最初の攻撃のあと、自分が書いた日誌を読むと、恐怖で字が歪んでいた。ですが二度目からは、きちんとした字で日誌を付けていたそうです。

人はどんな状況にも慣れるものなんだね。

あくまで口調は穏やかなのですが、語られる内容は凄惨そのもの。しかもすべてはり作り事ではなく、過去に起きた事実なのです。

二回目以降の戦いでは、血がついていない乾パンを選り分けて食べる自分がいた。そう池田先生は教えてくれました。

忘れられない夜になりました。

 

 

 

 

それから私は、池田先生ご夫妻が東京へ居を移されるまで、時々邦久庵を訪れるようになりました。親しくお話などさせてもらうようになったのは、もちろん私が千年の街を書き上げて、池田先生が読んでくださってからです。このお話は、別の機会に譲ります。

 

最初の訪問から一年ほど経った頃、再びAさんから連絡がありました。邦久庵に実家で採れた野菜を届けに行くから、一緒に行かない?と。

私と妹は二つ返事で誘いを受けました。

邦久庵について、池田先生ご夫妻とお茶を飲みながら歓談していると、ふと池田先生が、「今日はお天気が良いから、ちょっと裏山に登ってみようか」と言われました。

邦久庵の裏には海に面した小高い丘があります。雑木林に覆われた小山を頂上まで登るのに10分くらいでしょうか。私たちは池田家の長靴を借りて、池田先生の後をついて登りました。

Aさんと妹はスカートだったので、遅れていました。私と池田先生が先に頂上に到着しました。

 

そこから見える景色は、180度の海です。絶景とはこのことを言うのでしょう。「わぁー、すごい!」と思わず声が出ました。すると、隣で一緒に海を見ていた池田先生が、ポツリと言いました。

「この高さはねぇ、矢矧の艦橋と同じ高さなんだよ」

私は、この言葉を聞いて、少しショックをおぼえ、池田先生の横顔をまじまじと見て言いました。

「先生。先生の背中には、矢矧が張り付いてるね。目の前の海の絶景を見て、思うところが矢矧のブリッジの高さだなんて。先生は背中に矢矧を背負ってるみたいだね」

池田先生は、えっ?と驚いて、でもすぐににっこり微笑んで、

「そりゃそうだよ。僕の中から矢矧が消えるわけないよ」と言いました。私はこのとき、池田先生がちょっと嬉しそうに見えました。

 

池田先生との会話は、今でも私の心に深く刻まれています。

この短いやり取りの中に、大日本帝国海軍軍人としての池田武邦がまだ生き続けていると思い知りました。

池田先生の戦争は、まだ終わっていないのだと強烈に感じた出来事でした。そしてそれは、池田先生に限ったことではないのだろう。あの戦争を生きた人たちの多くが、池田先生と同じ気持ちなのだろうと。

 

私たちから遅れて到着したAさんと妹には内緒のお話です。

池田先生とのエピソードはまだまだあります。

折に触れてご紹介していこうと思います。

読んでくださってありがとうございました。