池田武邦先生のこと | 千年の街から~ハウステンボス便り~

千年の街から~ハウステンボス便り~

小説「千年の街~ハウステンボス物語~」の著者・蒼木凜々のブログです。(ハウステンボスはパワースポット)と信じる著者が自作の小説の聖地巡礼やハウステンボスを紹介するブログです。

こんにちは。

今日のブログは、ハウステンボスの基本設計を担当した、

建築家の池田武邦先生についてです。

私は拙著「千年の街~ハウステンボス物語~」を執筆中に知人の紹介で初めてお目にかかりました。

 

ここで池田武邦先生を簡単にご紹介します。

ウィキペディアからの引用です)

 

1924年1月14日生まれ 97歳、

元日本設計代表取締役社長、

元ハウステンボス株式会社代表取締役会長

日本の高層ビル建築の初期の頃に携わった建築家です。

 

1943年9月に海軍兵学校を卒業後、同11月大日本帝国海軍軽巡洋艦矢矧に着任、測的長として乗務されていました。

1945年4月6日、戦艦大和以下、駆逐艦8隻と共に沖縄に出撃。

翌7日、米軍の攻撃により矢矧沈没。池田先生は直撃弾の爆風で顔面の大やけどを負い、海に投げ出されます。そのまま海中を立ち泳ぎしながら数時間経過。約5時間後に駆逐艦冬月に救助されます。そして佐世保港へ。しばらく佐世保で療養されます。この時の経験が、後のハウステンボスプロジェクトに繋がります。縁とは数奇なものです。

 

ちなみに、池田先生の顔には、いわゆる火傷のケロイドがまったくありません。そのことを先生に尋ねたら、その時海面には一面に矢矧から漏れ出た重油が広がっていた。自分はその重油の中に投げ出された。そして4月初めの海水はとても冷たかった。だから必然と火傷を重油で保護して海水で冷却されて、たまたまそれが火傷の応急処置になってたんだよ、と教えてくれました。

 

 

終戦後は、東京大学で建築を学び、卒業後は民間の建築設計事務所に勤務。日本初の高層ビル、霞ヶ関ビルの建造に深く関わる。

1967年、日本設計代表取締役に就任。

1976年、日本設計社長に就任。

京王プラザホテル、新宿三井ビル、アクロス福岡、東京ベイヒルトンインターナショナル、東京都立大学キャンパスなど、多くを手がけた。

 

その後ハウステンボスプロジェクトを経て、2008年にハウステンボス代表取締役会長として経営に参画されます。

 

池田先生の名前が多くに知られるようになったのは、

2008年2月18日放送のNHKハイビジョン特集

「日本の風景を変えた男達 廃墟から高層ビル

そして池田武邦が語る戦後」という番組が大きいと思います。

かくいう私もそうでした。

 

 

さて、そんな池田武邦先生と私の出会いです。

ちょうど「千年の街~ハウステンボス物語~」を執筆していた頃、知人のAさんから、佐世保のNPO法人「大地といのちの会」の集まりで凄い人と知り合ったから紹介してあげると言われました。

大地といのちの会は、吉田俊道先生と、中尾慶子先生のお二人を中心としたNPOで、生ゴミをリサイクルして堆肥にし、その堆肥で野菜を育てる、そして食の大切さを子供達に伝えるという素晴らしい取り組みをされている団体です。知人のAさんは、ご実家が野菜を作られている関係で大地といのちの会を知り、活動に参加していました。

 

池田先生は、大地といのちの会の趣旨に賛同し、定期的に講演をされていました。そしてそれは時々ハウステンボスで行われていました。

そこの集まりで、私は池田武邦先生を紹介していただきました。

「ハウステンボスの小説を書いてるの。すごいねぇ。頑張って。」と言ってくださったのを覚えています。

その後、何度か集まりに参加したとき、当時、池田先生ご夫妻の身の回りのお世話をされていたNさんと知り合います。Nさんのお父様は池田先生の海軍時代の後輩になれらるとかで、とても親しくされていました。そしてなぜか私はNさんから気に入られ、そのご縁で池田先生とも親しくさせていただくようになりました。

 

 

ある日、ハウステンボスでの大地といのちの会の集まりの後、講演を終えた池田先生ご夫妻と、Aさんと彼女の友人、Nさんと私と妹で一緒にロッテルダムの駐車場に向かっていました。ちょうど東門のゲート近くに差し掛かった時、ゲートの隣にある船舶整備場(通称ヤード)から父が現れました。ヤードは父の職場です。

この日、たまたま池田先生のヨット矢矧の修理が終わったので、試験運転したかった父は、偶然通りかかった池田先生にその旨伝えました。すると池田先生は、「じゃあ、これから行こうか」と言って、急遽、私たち全員をヨットに招待してくれたのです。

そして私たちと父も一緒に乗り込み、夕暮れの大村湾をクルージングしました。NHKの番組を見て、すっかり池田先生のファンになっていたAさんの友人は、感激して泣いていました。

 

 

当時、池田先生は、80歳を超えておられましたが、非常にモテるかたで、特に若い女性からモテモテでした。

とあるノンフィクション作家の女性が、池田先生のことを「80を超えられてなお、非常に色気の漂う方」と雑誌に書かれたくらいです。

後に私やNさんが冷やかすと、「そうかなぁ」と照れておられました。

 

こんな風に、私と池田武邦先生の交流は始まりました。

私は、第一線を退かれたあとの池田先生しか知りません。

日本設計やハウステンボスで、現役バリバリで活躍さなっていた頃の池田先生は、みなが恐れるような、どこか只者ではない方と、様々なビジネス書などに書いてあります。

ですがこのブログでは、あくまで私が見てきた池田先生のことをご紹介していきたいと思っています。

現役時代をご存じの方々、平にご容赦を。

 

(注・写真と本文は関係ありません)