遅くなりましたが愛生ちゃんの配信ライブの話。
めちゃくちゃ正直に言いますと、配信2日前くらいまでちょっと忘れてたんです、ライブのことを。
それくらい、強い期待感は無かったというか、「言うて画面越しだから」という気持ちが根底にはあって、ライブはやはり現場に行ってなんぼのもんじゃろと決めつけている自分がいました。
しかしな、びっくりしたんです。
ライブだったんです。ちゃんと。
照明とか演出とか、生バンドの演奏のナマモノ感とか、いろんな要素はあると思うんですけどね、なんの違いかうまく説明できないんですけど、私たちは決してただ「豊崎愛生さんのカラオケ映像を見せられている」のではなかったと思うんです。
ステージを作る側と見る側の関係が出来上がっていたというか、体がそこにあるかないかの違いで(いや、それは重要だけどでも)、ライブってこういう形でも成立するだなと、感動をおぼえました。
いつだって私たちに向かって声を届けようとしてくれる愛生ちゃんが目を合わせて歌ってくれているの、そこにカメラや電波が介することが決して「仕方なくそうした」のではないのだと思わせてくれるパフォーマンス。
愛生ちゃんはどこまでいっても愛生ちゃんでした。
ほんとに、すばらしかったです。
そんな感じでライブ序盤から心をほこほこさせていたため新曲を歌うということを最後のMCで話すまで忘れていたのは秘密ですが、なんとアルバムとしてリリースされるのは嬉しい誤算というか、てっきりシングルだと思っていたので喜びがより一層つよいものになりました。
2018年にAt livingが出ているとは言え、シングルのハニプー、ベストアルバムの猫になるがともに2017年でそれ以降オリジナル曲のリリースは無く、10周年でもあったのにマジでどうしたと思っていたので、実は動いていてくれたことに感謝感謝です。
新曲、強いタッグですね。
愛生ちゃんという人間を音楽に落とし込むのにこの上ない組み合わせだなと。
聴き込んで、歌詞を書き起こしました。
間違いなく、私たちに寄り添う歌なんだけど、ちょっと切ない気もしたんですよね。
そもそも「それでも願ってしまうんだ」の「それでも」って、何に対してなのかなって。
大変な世の中でにっちもさっちもいかなくても。
僕が願ったところであなたを救えないかもしれないけど。
僕が願う前からあなたは幸せかもしれないけど。
それでも、かなぁ。
それから、なんで「願ってしまう」のかなって。
普通に考えたら「〜してしまう」って、自分の意に反してそうしてしまうということじゃないですか。
ならばそこにいる「僕」は、願うことを否定された人なのか、願わなくてもいい立場の人なのか、願ったところで力及ばない人なのか。
そう思うと、これはポジティブな気持ちだけで綴られたものではないのかな、と思ったんですよね。
歌っている「僕」もどこかさみしくて、だからこそ「手をつなぎたい」し「目を合わせたい」のかな。
私たちに寄り添って希望をくれる歌でもあるけど、この歌の「僕」もまた、だれかと繋がりたい私たちそのものでもある気がしました。
みんな誰かの力になりたいし、誰かを笑顔にしたいし、自分も幸せでありたい。
それが、「もしも」とか「まさか」ってすごい謙虚ですよね。
そのへんは愛生ちゃんらしいなって。
いいなと思ったのはね、サビの結びの歌詞が、
「だから聞いて 僕の話」
から
「届けるための 小さな話」
を経て最後に
「大切なみんなとの話」
になるところ。
聞いて!って一方通行だったのが、双方向になったみたいな。
「伝える」が「伝わる」になった瞬間のあたたかさを感じて胸がじんわりしました。
ほんとのところは分からないし歌詞も間違ってるかもしれないので、これから愛生ちゃんが何を語るのか楽しみなところです。
ちなみに音源がまだできてないとのことなので、曲の最後もどうなるか気になりますね。
あのゴリゴリにかっこいいクラリネット、すてきなんだけどちょっとさみしい感じもして。
何はなくとも初夏を待て、といったところです。
ちょうど先日、けいおんライブCome with Me!!から10年だったそうですね。
人生初めて行ったライブ。
まだブレードではなくサイリウムだったあの頃、ライブの勝手が分からなくて、1本だけ買っていった赤のサイリウムがあっと言う間に色あせてしまって、それでも最後まで握りしめて「愛生ちゃん」とさけんだあの日を思い出しました。
あの日ステージ真反対の200レベルから小さく小さく見えた愛生ちゃんに、近づいた、なんておこがましくて言えないけれど、この10年の間に愛生ちゃんと交わした言葉がいくつもあることを、今日も誇りに、大切に思っています。
だいすきをありがとう!