10年ぶりくらいで、桐生操著『世界史拷問処刑博物館』を読み返したら

あることを思い出して、備忘録として書いておきたくなった。

 

念のため書いておくけど、これは誰かの「受け売り」じゃないよ。

澁澤龍彥サドマゾッホの著作から導き出した「俺の結論」

 

日本だけでなく

海外でも大々的な勘違いが罷り通っていることがある。

 

例えば、有名なところでは

「フランケンシュタイン = フランケンシュタイン博士の作った怪物の名前」

「ドラキュラ伯爵 = 吸血鬼」

など

 

サディスト (以下、S) とマゾヒスト (以下、M) も、その一例だ。

 

現代における認識は

「S = Mを痛めつけて喜ぶ人」

「M = Sに痛めつけられて喜ぶ人」

 

イチイチ引用しないが、英英辞典の定義も上記と同じだ。

 

こんな認識だから、日本には「SMクラブ」なんてもんがあるし

欧米には、”S&M Show” なんて見世物が存在する。

 

しかし

「真性のS」「真性のM」が交わることは決して無い。

 

真性のSとMの「快楽を得る目的」が全く同じだからだ。

 

真性のSとMの最大の目的とは

「他人に苦痛を味わわせること」

 

「Mの目的は苦痛を味わうことだろ」

というツッコミが聞こえてきそうだが

実際のところは違う。

 

そもそも、真性のMは

「一方的に痛めつけられること」など望んでいない。

 

それに、Sの語源となった、マルキ・ド・サドには

現代的認識で言うところの「Mっ気」もあった。

 

「マルセイユ事件」では

「娼婦を屋敷の広間に集めて、一人ずつ別室に呼び出し

流血するまで鞭で打ち続けることにより快楽に溺れる」

というSの一面を剥き出しにすると同時に・・・

 

「娼婦をバックの体位で攻めている最中に

サド自身の肛門に男根を挿入するよう、付き人に命じた」

 

更には、「娼婦に対して、自分自身を鞭打つよう懇願した」

 

キチガイである。

 

一方、Mの語源になったザッヘル・フォン・マゾッホ

婚約者のマリアと結婚する時、ある契約を交わす。

 

その契約とは

「私 (マゾッホ) が選定した男性と、指定した日時に肉体関係を持つこと」

 

マリアは当然、拒否したが、マゾッホの泣き落としで、最終的には同意してしまい

マゾッホが連れてきた男と定期的に性行為を行なった。

 

それを物陰から覗き見して

マゾッホは快楽を得ていた。

 

当然のことながら、この時、彼は

「嬉々として覗いていた」、わけでは無い。

 

マゾヒストであるから、自らも「苦痛」を感じていた。

 

つまり、「嫉妬心を募らせることで、自分自身を快楽へと導いた」ってこと。

 

マリアは、最初のうちはイヤイヤながら性行為を繰り返していたが

その男は、マゾッホよりも若く、外見も良かったので

徐々に本気の恋愛感情が芽生えていった。

 

それからは、マゾッホからの指令が無くても

マリアと男は逢引きして、性行為に耽るようになってしまった。

 

マゾッホは、マリアの苦痛に歪む顔を見て、自分も苦痛を感じていたのだから

これでは当初の目的を果たし、快楽を得ることができないどころか

「マゾッホだけが、苦痛を味わう」ことになる。

 

そんで、これが原因となり目出度く離婚

 

余談だが、SとMの生みの親であるフロイトは、マゾッホと同時代を生きた人で

「マゾヒズム」という概念を考案した時

マゾッホは

「サドのようなキチガイと私を同列に扱うな」

と激しい抗議文をフロイトに送っている。

 

というわけで

「真性のSも、真性のMも

『他人に苦痛を与えて快楽を得る』

という真性のキチガイだから

両者は、どこまで行っても交わらないよ」って話でした。

 

 

 

今回も

(1) 『米国を破滅に導くポリティカルコレクトネスの事例』

(2) 『シアトル当局者、「潜在的な侮蔑語」を禁止』

という2つの記事で紹介されている事例について書きたいと思う。

 

事例 9

 

=======引用開始========

 

カリフォルニア州では

性同一性障碍患者の学生

ジム、トイレ、シャワー室などの施設に関して

男性用でも、女性用でも、本人が希望する方を使用できる」

という法案が成立した。

 

性同一性障碍患者の学生は

「男性用・女性用両方のトイレを使用する権利」

を手に入れた。

 

また、スポーツにおいても

「男子チームでも、女子チームでも、好きな方に所属する権利」

が確立された。

 

支持者達は、「画期的な法律だ」、と感謝の声を上げている。

 

本法律によりカリフォルニア州教育規約は改訂され

「学生は、その生物学上の性別ではなく

自己認識上の性別に基づき

利用する施設、所属するスポーツチーム

参加するプログラムを選択することができる」

という条文が加えられた。

 

つまり、男子学生が、「ワタシは、オンナよ 照れ、と強硬に言い張れば

姿形はどう見ても「オトコ」だったとしても

女子トイレを利用できる。

 

=======引用終了========

 

この法律が成立した正確な時期は不明なんだけど

(1) と (2) の記事が書かれたのは2013年だから

「2013年よりも前」ってことは確実。

 

2017年1月1日から、ニューヨーク市の一部のトイレ

「男女区別表示を禁止する」っていうのは

去年くらいから日本でも話題になっていたけど・・・

 

2013年以前から、もう既に始まっていたんだな。

 

しかも、記事には

”Transgendered Students” (性同一性障碍患者の学生)

としか書かれていない。

 

だから、小学校から大学まで全ての学校に適用されていると推察される。

 

また、男子学生が「ワタシは、オンナよ ドキドキと言い張れば

女子トイレを利用できるってことは

自分のことを「オトコ」と認識していても

「女子トイレへの侵入がオッケーだよ」ってことだ。

 

そんで、一番気になるのが

「男女の区別無くスポーツチームを選択できる権利」

 

これが全米および全世界に広がったら、どうなるんだ?

 

例えば、米国代表チームの構成

 

「ワタシは、オンナよ チューと言い張るオトコ

女子代表チームに所属し

「オレは、オトコだ 男性トイレと言い張るオンナ

男子代表チームに所属する

っていう事態も起こり得るってことだろ?

 

オリンピックでは、既に「男子、女子」だけでなく

『性転換後の性別』の部門も設けた方が良いのでは?」

との議論が始まっている、という噂を聞いたことがある。

 

あくまでも、「噂」、だからね。事実確認はしていないから。

 

もう、こうなったら

「男が男性器を見せびらかしながら公道を歩く権利」

も認めちゃえよ。

 

どこに向かっているのか? その(8)

今回も

(1) 『米国を破滅に導くポリティカルコレクトネスの事例』

(2) 『シアトル当局者、「潜在的な侮蔑語」を禁止』

という2つの記事で紹介されている事例について書きたいと思う。

 

事例 7

 

=======引用開始========

 

米軍に勤務する牧師は、その宗教上の信条に反するとしても

ゲイの結婚式を執り行うことを強要されている。

 

数名の牧師は、命令を拒否したところ、解雇された。

 

=======引用終了========

 

事例 8

 

=======引用開始========

 

シャーロット・メックレンバーグ郡警察署において

ボランティアで牧師を引き受けていた人物

公的施設内でイエス・キリストの名前を

口にすることを禁じられた。

 

=======引用終了========

 

「事例 7」に関しては、「軍の命令」「時代の流れ」という2点から

「仕方が無いかもね」と思ってしまう一方で・・・

 

「牧師なんだから、宗教上の教義を大切にしたい気持ちは分かる」

と牧師に対する同情心も湧いてくる。

 

宗教的に緩い日本という国で生まれ育った俺には

「事例 7」に関して、あまりハッキリしたことは言えない。

 

ただし、「事例 8」に関しては

「イエス・キリストの名前を口にすることを禁じたら

牧師の役割を果たせね~だろ。

そもそも、禁止するんなら、牧師のボランティアなんか不要だろ」

っていうのが俺の意見なんだが・・・

 

米国人の皆さんは、同意してくれますか?

 

以前、『新聞記事のレベルではない』『なんか変、なんか違和感』

という本ブログの記事で

「米国オレゴン州でケーキ屋が同性愛カップルの結婚式に

ウェディングケーキを提供することを拒んだために

慰謝料を支払うことを命じられた」

というニュースについて書いた。

 

このケーキ屋夫妻は、慰謝料の支払いに加えて

公の場で、自分達の宗教上の思想信条について語ることも禁じられた。

 

これは、「事例 8」ケーキ屋夫妻の事件

明らかに

「ポリティカルコレクトネス (以下、PC) 思想の暴走」

ではないだろうか?

 

いつの頃からか知らないが

「キリスト教に対する風当たりが強くなっている」

という話は前々から聞いて知ってはいた。

 

『本当に共産主義が蔓延してんじゃね~の?』でも書いたが

“White Guilt”という

「白人自虐教育」の影響なのだろうか?

 

これは

「白人であることは罪であり

黒人など少数者を批判することは

人種差別になる」

という白人に対する自虐的教育方針。

 

今回、紹介した事例は、まだまだ序の口で

「PC思想」に基づいた明確な

「キリスト教弾圧」

「キリスト教否定」

と言っても過言ではない事例もあるので

次回以降も紹介していきたい。

 

どこに向かっているのか? その(7)