俺のブログには
「ポリティカルコレクトネス」 (以下、PC) に関連する記事が多いけれど
最近、米国大統領選に絡んで日本でも「PC」が話題に上るようになったから
急に注目し始めた訳では無い。
もう、20年近く前になるが高校の公民社会の教師が
「今、米国ではPCといって政治的に正しい言葉を選んで使うようになっている。
今後、世界的にそのような風潮になるだろう」
という話を聞いた時から意識するようになった。
今にして思えば、随分と先見の明のある教師だったと思う。
で、『どこに向かっているのか? その(1)』という記事で次のように書いた。
=======引用開始========
PC を支持する人々というのは
どのような理論を駆使しているのか知りたくて
PC支持者の記事を検索するのだが、なかなか見つからない。
見つかったとしても
『リベラルに失望するリベラル』などの記事で書いたような
とにかく、「異論は許さない。自分達の価値観に従え」
「理屈など二の次だ」というような奴らの記事しか見つからない。
=======引用終了========
しかし、漸く議論が成立しそうなリベラルのPC賛成論者を発見した。
名前は、ジュリア・セラーノ (Julia Serao)
彼女は、性同一性障碍患者なのだが
「男性から女性になって、ジュリアと名乗っている」のか
「自分自身のことを男性と認識している」のかは分からない。
セラーノ女史は、PC反対論者を批判している訳だが
異論を排除する左翼やフェミニストのような人物ではないようだ。
なぜならば・・・
「コメディアンが
性別のことをネタにできなくなってしまったことは残念なことだ」
「私が『性同一性障碍患者だから』という理由だけで
色々なイベントに引っ張り出されるのは不愉快だ」
というような発言していることから
議論ができる、異論も受け入れてくれる
「寛容なリベラル」という人物像が見えてくる。
さて、彼女のPC反対論者に対する批判は、次の通り。
「現状維持を望む人々 (注) は、『PC』という言葉自体を
『侮蔑語』と認識している。
PC反対論者は、『言葉狩りだ』、『検閲だ』と勝手に騒いで
勝手に怯えているだけだ。
『適切な言葉』、『不適切な言葉』などというものは
時代の流れと共に常に変化し続ける。
我々は、その過渡期の中にいるだけだ」
(注: 「現状維持を望む人々」とは、「言葉狩りに対して反発する人々」ではなく
「時代の流れによる言葉の変化を受け入れない人々」のこと)
その実例として、次のことを挙げている。
「トランプが女性に対して過去に放った
『太った豚』、『犬』、『アバズレ』、『汚らわしい動物』などの言葉は
その当時においては、とりたてて騒ぎ立てる発言では無かった。
しかし、2016年の現在では
大多数の人々が『明白な性差別主義者』
『常識外れ』と認識するようになった」
そして、セラーノ女史自身も次のような経験をしている。
00年代初頭、”Slam Poet” という自作の詩を朗読することを生業としていた。
詩の内容は全て
「自身が性同一性障碍患者であることの告白」
「性同一性障碍患者としての経験」
大学などのイベントへの出演が決まっても
打ち合わせで詩の内容について説明すると
脅迫めいた言葉で出演を取り止めにされたこともあったという。
しかし、ここ十数年で事態は一変した。
性同一性障碍に対する理解も進み、イベントには引っ張りだこになった。
「詩の朗読者 (Slam Poet)」という肩書ではなく
「作家」や「活動家」として呼ばれることに不満があるようだが。
彼女は、「言葉が時代と共に変化することを受け入れない」と
PC反対論者を批判する一方で
性別に関する冗談に対してイチイチ目くじらを立て
無暗矢鱈に「言葉狩り」をするような人々に対しても
次のように批判している。
「性同一性障碍に対する認識が広まるにつれて
『不寛容性』が増幅されていく」
と左翼、フェミニストなどへの不満を吐露している。
加えて
「多分、そういう人達は
私が性同一性障碍について冗談を言っても
『言葉狩り』をしないでしょうね」
と皮肉を込めて言っている。
「『PC』というのは、時代の流れに伴う言葉の変容する過程」
という意見の持ち主ですら
左翼、フェミニストの「言葉狩り」や「言論の排除」に対して
「『不寛容性』が増幅されていく」
と不快感を顕わにしている点から見ても
現在の左翼活動がいかに過激かつ激烈なものかが分かる。
全てに同意できるわけでは無いが
傾聴に値する主張だと思うし
「言葉は時代と共に常に変化し続ける」
という点については賛同できる。
長くなりそうなので、次回も彼女の主張を引きながら
「PC」について考えてみたい。
続く

