抽象画に思うこと | 油絵を描いています、けどマンガも始めました

抽象画に思うこと

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前回、抽象画をUPしました。だいたいずっとモチーフは花を中心に描いてきました。美しい画面を描くのに、モチーフの力に頼って。

 

そういうわかりやすい美しさがある一方、20世紀に始まった、抽象絵画もあるなーとは思っていて。現代美術は抽象絵画の延長にあるわけですし。

 

学生時代の若い頃は、前衛的な抽象画は面白いと思いましたし、これからの時代を感じました。

 

でもいつしか、そういった抽象絵画は、行きすぎてしまったような、、美と掛け離れた感じを受けるようになり、さすがに、それまでの伝統的な美しい絵画画面をあまりにも片隅に追いやってしまっているのではないか、という疑問も持ち始め、それは私がブログに絵をupし始めたきっかけでもあるのですけど。

 

私の好きな絵の紹介に、日本画の他、ミュシャを挙げましたが、ミュシャはそれまでの伝統的な絵画から外れた、アールヌーボーの時代を象徴する商業絵画です。“写真“の登場によって、ヨーロッパではアカデミズム絵画に影響が出始めた時代。その時代、“美しさ“が堅苦しく蔓延していて、その概念をはみ出す物は、糾弾されるようなことにもなっていたのかと思います。

 

そこに、物の形に捉われない、新しい美の形の表現が始まったことには、世の中はワクワクしたのではないかと思います。私も、その時代の絵画や、その絵画への興味から知った歴史を見ると、ワクワクしました。

 

そして、写真が出始めて、それまでの絵画表現が変化したように、コンピュータでのデジタル画が出始めると、進化したはずの絵画は、少しまた歪んできたように思います。その辺りから、伝統的な絵画表現の美意識は、より、なおざりになっていったような気がします。人の気を引くためか、極端に不安を煽るような作品が多くなって。

 

さらにコンピュータが進化し、最近は精巧なAIによるデジタル画が出始め、世の中にショックを与えています。

 

ただ、生成AIによるデジタル画を見ると、上手だなと思うけど、何処かで見たような、そして、どれを見ても似たような画面だな、とも思ったりするのですよね。

 

まあでも、案外画面の美しさは戻ってきているな、とも思っています。一頃の、人の気を煽るような不安気とか、不気味さとか、不愉快な感じはなくなっているように思います。


で、生成AIの絵の、結局既存の絵の寄せ集めのような感じではなく、もっと人間が作り出したような表現、といったことを考えた時に、抽象画が浮かんできて。

 

抽象画は、それこそカメラがどんどん普及し、写真が手軽に撮れるようになった辺りで、印象派やアールヌーボーなんかを超えて、カンデンスキーとか、ポロックとか、画面から具象が消え、分からない形とか、絵の具の飛沫とかだけの画面になったもので。その内、なんだか、いたずら書きのような、誰でも描ける落書きのような形になっていき、特に現代美術ではどんどんその傾向が主流になって。

 

私はそういった物の形の美しさから離れていくことに疑問を持ったりしたのですが、でも、ちょっと待てよと、抽象画も良いと思っていた時期、あったよねと。行き過ぎた抽象画はちょっとどうかと思うけど、カンデンスキーやら、ダリやら、モンドリアンとか、面白いなーと思ってたなと。

 

で、実際、私が20歳くらいの時、なんか部屋に絵を飾ろうかな、と思って何気なく買ったのは、カンデンスキーの複製画の入ったパネルでした。なぜあの時カンデンスキーだったのかな、と思い返すと、画面には具体的な形のない、記号のようなモチーフが描かれ、その画面を見ると、世の中の意味をリセットされたような、世の中の定型的な美しさに捉われない、自由な感覚を感じたのですよね。

 

そこでね、ピンときたのですよ。生成AIのデジタル画は、案外型に嵌った感じがあり、堅苦しさを感じるんだなと。マンガを描こうと思った時に、絵は情報の伝達の役割がある、ということを書きましたが、生成AIのデジタル画は、その、情報伝達感が強い気がして。生成AIが提示する、厳格な美意識に固められているような感じ。

 

それで、かつて抽象絵画から感じた「自由」な風情と、開けたようなワクワク感を感じたいなと。

 

そんなわけで抽象画を描いてみました。

 

次回は描いた絵の説明をします。