「幸福感」について | 油絵を描いています、けどマンガも始めました

「幸福感」について

ご訪問ありがとうございます。


以前「美」について語ったんですけど、


「幸福」について考えていることも、少しお話させていただこうかと思いまして。



私の絵のテーマは、「幸福感を感じる美しさ」の表現なんですけど、


かといって、超・ハッピーな絵ってつまんないんですよね・・・。


残酷なことに。


自分で以前にそういう絵を描いてみて、思いました。


こんなにハッピーなのに・・・なぜ魅力がないの?



なんでだろう、と、考えたんですけど、


不自然なんですよね・・・。


世の中、完全な幸せって存在していないのかもなと自分の絵を見て思ったりしました。


完全な幸せ感を描いたはずなのに、ある種、本能的に「疑い」を感じたんですよね。


なんともかるーい絵になってしまって、魅力がないったらないの。



以前ご紹介した松園の美人画で、若い着飾った娘さんはとってもきれいなんだけど、


まあ、きれいで当たり前っていうか。


それに比べて、「晩秋」とかの女性は普通なんだけど、何とも言えない魅力があるっていう差のような。



もしかして、人間って、「完全な幸せはない」ってどこかで感づいているのかもなぁと、その時思ったんですよね。


ルノアールも似たような悩みを持ったみたいで、自分の絵を光でいっぱいにしようとしたら、ものの境目がなくなってしまうっていう悩みを持ったりして。


つまり、「光」ばかりを讃美して、「闇」を否定してしまうと、非常に不自然になってしまう。




「美」と「醜」の関係性もそうだけど。


世の中は全てある種、二律背反で成立している。


古くからの東洋思想の知恵がここに浮かび上がる。


「陰」と「陽」


「陰」極まりて「陽」になり、「陽」極まりて「陰」に転ず。


悲しいかな、自然はこの呪縛から、逃れることができない。



「幸福感」を描きたかったら、必ず「悲哀感」のような要素を加えないと、浮かび上がってこない。


「美」を描くときは「醜」を視野に入れないと描けないと思ったけど、それと同じ。


「幸福感」の裏には必ず、もれなくそうでない状況がある。


でも、その呪縛こそが、リアルな現実。


リアルな現実に向かう私たちには、「幸せ感」に傾きすぎたものには却って不安感を持ったりする。



かといって、その二律背反に振り回される状況もつらい。


そこで、東洋思想はその呪縛に一つ光を見つけた。


「中庸」ということ。


幸せになりたいとは誰もが思うことだけども、


東洋思想的な結論はこの「中庸」だった。


ニュートラルな状況、幸せでも不幸でもない状況が、変な言い方だけど、


一番幸せな状況ということ。




私が「幸福感」を描こうとする理由は、そんな感じで、


「悲哀感」、まあ、へこんだり落ち込んだりした時の


「中和剤」のような物があった方がいいかなと。



(あ、ゴッホがバブルの時代に高値をつけたのも、もしかしたらなんらかの中和を図ろうとする現れだったのかも。)



超・ハッピーな絵は現実離れしてしまって、嘘くさくて、心がはねつけてしまう。


少し、暗い感じを入れると、意外と心は受け付けてくれる。


平ったく言うと「明度」なんだけど、


このさじ加減で、絵のリアルな「幸福度」が変わってくる。


へこんだ時の中和剤なりえるかどうか、を左右する。



人間は芸術によって成立し、芸術はその人間によって成立するのよね・・・。



と、思いました。


今度、恥ずかしいけど、そのつまらない絵を試しにアップしようかと思います。

(私は嫌いじゃないんだけど、あんまり評判が良くないのよね。)



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