絵のテーマ「美」
ご訪問いただきまして、ありがとうございます。
今日で、自己紹介は最終回です。
長かったです・・・。
さて、昨日は「幸福感を感じること」が私の絵のテーマです、ということをお話ししました。
もう一つのテーマがありますが、以前にも書きました、
「美しい絵」です。
ただ、これは難しいなー・・・とよく感じます。
ある意味「幸せな絵」より難しいと思います。
というのは、「美」には必ず「醜」がまとわりつくからです。
「醜」があるからこその「美」なんですよね・・・。
「美」を描くには「醜」を定義付けなくてはならない・・・。
ここが難しいです。
何を美しいかと思うときに、何が醜いかと同時に考えなければなりません。
ということは、自分の嫌な部分にも向き合わなければなりません。
また、「美」は「醜」がまとわりつくために、差別意識が生じてしまったりします。
何かを「美しい」と定義すると、それ以外は「醜い」となって、
結局、「美しさ」を追及するということは、「醜さ」を排除することだから。
「美しさ」を徹底的に客観視しないと、飲み込まれてしまいます。
・・・「美しさ」というのは刃物のようだな、と思う時もあります。
私はそういった「美」の中で、結局のところ、「幸福感のある美しさ」を追及しています。
人が生きていくのに、手助けになるような「美感」の創出。
先にあげた、上村松園の絵などを例にとると、
例えば、美しい着物を着た若い娘さんは、確かに明らかに美しいのだけど、
でも、私がどうしても惹きつけられる美しさは、そうではなかった。
自分の中にある「美意識」を洗練させていくことに、
何となく人として深まっていくような気がする。
そして、新たな自分を発見できる。
まるで生まれ変わったかのような感覚。
最近深まった美意識の中に、千利休の考え方についてのことがあります。
千利休は豊臣秀吉と、その美意識について戦わせました。
(あまり詳しくはないですけど)
秀吉は豪華絢爛なものを美しいと言いましたが、千利休は品がなくて醜いと言いました。
私はどちらかというと秀吉派でした。
だって、やっぱり極彩色ってきれいだし。なんだかんだ千利休って地味すぎるし。
それに、千利休って秀吉を田舎者かなんかってバカにしたような感じなんじゃないの?的な。
でも、人の上に立つ人にとって、お金を掛けて豪華なものを身の回りに置くことは、
そう難しいことではないかもしれないけど、
そうではなく、質素なものにも愛情を持てる、
しいては、自分の統治している隅々の人達を尊重するといった、
心の持ちようの方が美しいなと、
ふと思ったのです。
本当の千利休の考え方とは違うかもしれないけど・・・。
かといって、楽茶碗よりもやっぱりキレイな絵付けがされているお茶碗の方が私は好きなんです・・・。
この辺の意識も自分で研究中です。
「美意識」はそう簡単ではありません。(ちょっといいわけ)
扱いが難しいし、下手すると振り回されてしまいます。
その中で、いかに人を励まし、幸福にする「美」を抽出するか、
このあたりが私のテーマです。
さてさて、私がどういった想いで作画にあたっているか、一通り説明してきました。
こんな感じで、絵を描く理由ってなんだろう?とか、
絵ってどんな影響があるんだろう?
と、考え考え、描いてきています。
そうやって考えたり、描いたりすることで、自分の内側をほじくって、様々な自分と出会ったりしています。
そして、そのことで、多少は他の人の気持ちの内側も、寄り添うことができているんではないかな・・・と思ったりしています。
これからは、その時々で感じたことを書いたり、描いた絵を見ていただきたいなと思っています。
ちょっと不定期になるかもしれませんが、これからもよろしくお願いします。