英語のクラスやセミナーのように、複数人で同時に学ぶ場では、必ず「進みの早い人」と「遅い人」が出てきます。

同じ課題を与えても、数分でできる人もいれば、10分かかる人、あるいは次の週まで完成しない人もいます。


ここで問題なのは、できる人がいるほど、できない人が焦るという心理が生まれることです。

「同じ環境で学んでいるのに、自分だけできないのはなぜ?」

「もしかして自分には才能がないのでは?」

そんなふうに感じてしまうのです。

当然です


実際には、努力の差ではありません。

同じように頑張っていても、成果が出るスピードに差が出るのは、性格や思考のタイプが大きく関係しているからです。


たとえば、外交的で自己主張が得意なタイプの人は、英語という“外に向かう言語”と非常に相性が良いので、習得が早い傾向にあります。

一方で、私のように内向的で自己分析型の人は、英語のような外向的コミュニケーションに慣れるまで時間がかかります。

しかしそれは「劣っている」ということではなく、向いている学び方が違うだけなのです。


本来なら、英語クラスは「初級」「中級」で分けるのではなく、

「外交的タイプ」か「内向的タイプ」かで分けるべきなのです。


なぜなら、レベルで分けてしまうと、上級クラスには外交的な人しか残らず、内向的な人は「落ちこぼれ」と感じてしまうからです。


実際初級初級と上級を分けると、上級にはその自己主張しか残ってないことがある。

じゃあ同じことだと思うかもしれないが、初級から上級中級に上がれず落ちこぼれたとなってしまう。実は彼ら落ちこぼれではない。

私も含めてちゃんと自分たちに合った外向型英語と違う形で方法を選べば、彼らと同様か、それ以上の習得力を持つのだ。

これはほっておいとはいけない。提供側がほっといてはいけないのが

実はほっとかれて長いし。

これからも放って置かれるだろう



でも実際には、内向的な人たちは正しい方法さえ選べば、外交的な人たちと同等か、それ以上の習得力を発揮できるのです。


つまり——

学びのスピードの差は「才能」ではなく「タイプの違い」。

そして、その違いを理解してクラスを設計するのは、教える側の責任なのです。


アメリカには「迷惑をかける」という概念がほとんどないと前回したが

それゆえ、子どもたちも「迷惑をかけてはいけません」と叱られることがない。

この違いを理解するには、単に文化や国民性の違いではなく、「教育」という仕組みそのものの成り立ちを見なければならない。

日本の「教育」は、アメリカの education(エデュケーション)とはまったく性質が違うのだ。

教育というコトバがない


そもそも日本における教育の起源は、江戸時代にまでさかのぼる。

当時の教育は「学び」というよりも「統制」や「刑罰」に近い性格を持っていた。

それゆえに、教育と学習と言う。また別の言葉がある。これは本来一致するもんであるはずだが、別の言葉になっている。

学習とは違う教育は

人々を正しい道に導くためというより、「悪いことをしたらこうなるぞ」と周囲に見せつけるための“見せしめ”の側面が強かった。

つまり、教育とは本人を改善するためのものではなく、周囲への警告のための儀式でもあった。


たとえば、江戸の町では、罪を犯した者が人前で処罰されることがあった。

それは「本人の更生」ではなく、「周りに恐怖を植え付け、同じことをさせないため」統制の意味が強かった

教育も同じで、「本人の理解や成長」よりも「周囲にどう見えるか」を重視する文化が生まれた。

この“他人の目を意識する教育”が、現代日本にも根強く残っている。


だからこそ、日本の学校で最も重視されるのが「他人に迷惑をかけてはいけない」という教えなのだ。

それは、単に思いやりの文化から来たものではない。

「あなたが迷惑をかけると、周りに恥をかかせる」「周りの秩序が乱れる」――つまり周囲の安定を守るための教育的戒めなのだ。

個人の自由や創造性よりも、周りとの調和を優先する日本の教育は、まさにこの“見せしめ型教育”の延長線上にある。


一方、アメリカの教育は根本的に違う。

確かに educate という単語は存在するが、それは「外へ、引き出す(educare)」という意味から来ており、個人の中にある可能性を伸ばすことを目的としている。

つまり、アメリカの教育は「他人のため」ではなく、「自分のため」に学ぶという発想なのだ。

主役は生徒

誰かに迷惑をかけるかどうかよりも、「自分はどうしたいのか」「自分の力をどう発揮するか」が重視される。

日本の教育の主役は、先生と言うことになる

そう考えると、日本の「教育」とアメリカの「エデュケーション」は、同じ単語で訳されてはいるが、実際にはほとんど別物である。

日本の教育が“規律”や“統制”を軸にしているのに対し、アメリカの教育は“自立”や“自己表現”を軸にしている。

もし「他人に迷惑をかけないように」と徹底的に指導する文化を、アメリカで再現するとすれば、それは教育ではなく「軍隊訓練(ミリタリー)」に近くなるだろう。


皮肉なことに、日本の学生服――詰襟やセーラー服――はもともと軍服をもとにして作られた。

つまり、**日本の教育そのものが、外見からしてすでに“ミリタリー型”**なのだ。

服装、集団行動、号令、規律、上下関係――どれを取っても「教育」というより「訓練」に近い。


この構造の中で育った私たちは、「他人に迷惑をかけないように」「秩序を乱さないように」と常に周囲を気にしながら行動するようになる。

その結果、個人が何を感じ、何を表現したいかよりも、「周りがどう思うか」「どう見えるか」を優先する癖がついてしまう。


もちろん、それは悪いことばかりではない。

日本社会の秩序や礼儀正しさは、この教育の積み重ねによって保たれてきた部分もある。

しかし、英語やグローバルなコミュニケーションの世界においては、この「迷惑をかけない教育」が逆に足かせになる。

なぜなら、英語にはそもそも「迷惑をかける」という発想がないからだ。


つまり、日本の“教育”は、エデュケーションではなくミリタリーである。

そして、「迷惑をかけてはいけない」という教えは、その軍事的規律の名残とも言える。

だからこそ、日本人が英語を学ぶときには、まずこの“教育の前提”そのものを解きほぐさないと、本当の意味で英語の思考にはたどり着けないのだ。


日本の英語がうまくいっていない理由

英語の先生側の誤解シリーズです


英語を習いたい生徒が教室に来ると、先生はつい「英語が好きなんだな」と思い込んでしまいがちです。

そして、生徒もなんとなく「英語を習いたい=英語が好き」と思ってしまう。

でも実際には、多くの生徒は「英語そのもの」が好きなのではありません。

英語ができるようになったその先の自分の姿──たとえば、旅行先で会話ができるとか、海外ドラマを字幕なしで見られるとか──そういう“理想のイメージ”が好きなのです。

英語そのものを愛しているのは、実は先生だけなんです


この勘違いが、教える側と学ぶ側のすれ違いを生みます。

たとえば、先生が「英語の勉強は楽しいはず」と思って作った教材が、生徒にとっては「これ、何の役に立つの?」という内容だったりする。

先生にとっては英語そのものを扱う時間が喜びですが、生徒にとっては“成果”が見えないとモチベーションが続きません。

生徒とって必要なのは、あくまで効率の良い成果です



たとえば、シャドーイングを10分やって「少し聞き取れるようになった」としても、それは“1分間の会話が聞こえるようになった”というレベル。

生徒は「10分かけて100個の英語表現を覚えたい」と思っているのに、実際は「10分で1個」。

脳の疲れから考えると

これでは1日3個覚えるのがやっとです。

最初のうちはやる気があるから頑張れますが、2ヶ月もすれば勢いは落ち、1日1個がやっとになります。

100個覚えるのに3ヶ月。

1000個覚えるなら30ヶ月、もう3年以上かかってしまう計算です。


そうすると、始めたときに描いた「英語ができる自分」のイメージと、現実とのギャップが大きくなります。

「思ったより時間がかかるな」「思ってたよりうん英語なんだか楽しくないな」思ってたより時間かかるな

と感じて、だんだん続けられなくなっていく。


これは、生徒のせいではありません。

提供する側──つまり先生や教材の作り手のミスです。

けれど現実には、「生徒の努力が足りなかった」「やる気がなかった」と、生徒の側の問題にされてしまう。

この構造こそが、日本の英語教育が抱える最大の誤解であり、学習が長続きしない大きな原因になっているのです。