私がダンスを教える中で強く実感したことでもある

英語とまったく同じ構造なのだ。ダンスの生徒さんが上達していく過程で、指導者が最も気をつけなければならないのは「何を教えるか」よりも、実は「この段階で何を教えてはいけないか」という点である。

なぜなら、教えてはいけないタイミングで余計な情報を与えてしまうと、その瞬間に生徒の動きが止まり、身体が混乱し、できるはずのことが突然できなくなってしまうからだ。

これは英語学習のプロセスにもまったく同じことが言える。


教える側は、全体の工程をきちんと見通し、どの段階で何を教えるべきか、そして逆に「まだ触れてはいけないこと」は何かを明確に整理しておかなければならない。

しかし多くの指導者は、「今教えるべきではないこと」を理解していないため、つい順番を誤ってしまう。その結果、学習者が本来その時点で自然に獲得できたはずの感覚や動き、そして「自分でつかむ喜び」を奪ってしまう。教える側が焦って説明しすぎるほど、学習者の吸収力は落ちていくのだ。


たとえばダンスの指導で言えば、まだ身体が動きを覚えていない段階で「ステップの正しい足の角度」や「重心の位置」などを細かく指示してはいけない。そんなものを最初から意識してしまうと、身体は硬直し、リズムに乗ることも、自然に流れるように動くこともできなくなる。英会話もまったく同じで、最初から文法ルールを細かく説明しすぎると、学習者は「正しく話そう」とする意識に囚われ、声が出なくなる。右足を前に出すか左足を出すか――そんなことは、どちらでも良いのだ。後で自然と修正できるし、修正するタイミングはいくらでもある。


つまり、学習というのは「修正可能なチャンスを残しておくこと」が大切だ。先にすべてを整えようとするから、学習者が動けなくなる。本来なら、少しぐらい間違えても構わない。感覚で進み、身体が自ら答えを見つけていくことが最も自然で強い学び方なのである。


だが多くの指導者は、この“教えてはいけないこと”をあまりに軽く扱っている。教えるという行為の中に「伝えすぎることの害」を理解していないのだ。その結果、英語教育でもダンス教育でも、学習者の再現性が低くなり、成長の喜びが奪われてしまう。指導者が本当に考えるべきは「どこで教えないか」「どこで黙って見守るか」である。英語もダンスも、最終的に再現力を生むのは“教えすぎない勇気”なのだ。


人は一度、ある分野の本当にハイレベルな人に出会ってしまうと、その後に同じジャンルで出会う人たちのレベルの低さがどうしても際立って見えてしまうものです。これは私自身が実際に体験した出来事から痛感したことです。


私は目の治療のために長年通っている病院があります。実は私の角膜は過去にメスが入っており、通常よりもかなり複雑な状態です。そのため、どの医師でも簡単に扱える症例ではありません。しかし、現在通っているその病院の先生やスタッフは、保険診療でありながら非常に高い技術と知識を持っており、対応も丁寧です。私はそのレベルの高さに日常的に触れていながら、それがどれほど優れた環境なのか、当たり前のように感じていました。


ところがある日、地元の知人から紹介された別の眼科で「セカンドオピニオン」を受けたとき、私は衝撃を受けました。その新しい先生の診察は、すべてにおいて比較にならなかったのです。私の角膜の特殊な状態をまったく理解できていないようで、「きれいですね」と軽い口調で言われたとき、私は一瞬で「あ、この先生は本質を見抜けていない」と悟りました。おそらく、これほど複雑な症例に出会った経験がほとんどないのでしょう。だからこそ、表面的な見た目で判断してしまうのです。


もちろん私はお世辞を言ってほしいわけではありません。ただ、その言葉を聞いた瞬間に「この先生の腕前では、自分の目を任せるのは危険だ」と感じてしまったのです。そして二度とその医院には行きませんでした。驚いたのは、その先生のもとにも多くの患者がいたということです。おそらく普通の症状であれば問題ないのでしょう。しかし、患者の側に“比較する目”がなければ、自分がどのレベルの医師に診てもらっているかを判断することはできません。


この経験から私は強く思いました。医師に限らず、弁護士でも、英語の先生でも、どんな専門家でも本当に優秀な人に一度出会うと、他の人との違いが一瞬で分かるようになるということです。私も英語を学んでいた頃、ニューヨークで100人ほどの先生に習いましたが、最後の1人だけが本当に優秀でした。その先生に出会った瞬間、それまでの99人の先生がどれほど未熟だったかをようやく理解できたのです。


つまり私は、英語の先生を見極める“目”を持つようになった。そして今では医師を見極める“目”も持つようになった。まだ弁護士を見る目は発展途上かもしれませんが、いずれ身につけたいと思っています。


みなさんにもぜひ伝えたいのは、「合わない人に何度も当たる前に、本当にレベルの高い人に一度出会ってほしい」ということです。たった一度の出会いが、その後の判断力や人生の方向を大きく変えてくれるのです。


英語を教える側がよく口にする

「発音記号」や「文法 基礎」といった言葉と共に定着している。

しかし、その一方で「発音はこんな感じ」「アクセントはこういう感じ」というような“感覚的な説明”が存在する。

この違う2つの教え

―つまり、理屈で教える文法中心の型と、感覚で伝える音の世界――は、実は真逆の2方向を向いている。

それが多くは実践されているが効果が出ていない

そのため、学習者は混乱する

実はこの既存の英語法が

英語がなかなか身につかない最大の原因のひとつである。

と気づく英語提供人はいない


ところが最近の研究では、

もし

この2つを逆にする、

つまり

「名言化」されたものと「感覚的」されたもの

へ入れ替え


「名言化」されたものと「感覚的なもの」へ


学習者がより自然に英語を再現できるようになることがわかってきた。

つまり、学習者ができないのではなく、教える側――すなわち提供者の側――の構造が間違っていたのだ。

本来、文法や名言のような形でわざわざ言語化する必要はない。学習者が5つほどの似たような英文を体験すれば、自ら気づき、勝手に似たパターン違うパターンを見つけるものなのである。そこには“自発的な気づき”という、本人のみには根拠があって感覚に任せれる

そこに

まさに学習の醍醐味がある。


しかし、多くの指導者はその過程を奪ってしまっている。

なぜなら「何を教えないほうがいいか」という判断ができていないからだ。

経験値が浅く、再現の引き出しが少ないため、つい先回りして全てを説明してしまう。

結果として、学習者は「自分で習得の発見する喜び」を失い、学びの持続力の大きなキッカケをなくしてしまう。これは非常に不幸なことだ。

これでは学習効果を上げるための必要な脳血流は出ない

自分で再現性の能力に興奮できない

自分で自分を試せれないから面白くない

やっててつまらない

眠くなるのはこのためだ


本来、指導者が最優先に考えるべきは「再現性」である。

つまり、学習者が100%同じ結果を出せるように導くこと。

そのためには、提供者側が「名言化された理屈」と「感覚的な体感」を入れ替える必要がある。

この入れ替えは簡単ではないが、実践すれば100%再現可能である。

そしてそれこそが、英語教育の本質を取り戻す道なのだ。

しかし

英語に深みがない

英語提供者は気づかない

ずっと