この入院中に新たに診断されたのは、『副腎皮質機能低下症』です。
緊急時のお願いというオレンジ色のカードが渡されました。

もし倒れていたり、ぐったりしているときは医療機関での緊急処置が必要な状態です。
救急車を呼んでください、と記載のある二つ折りのカードです。

内側の主治医記入欄には、オプジーボ・ヤーボイによる下垂体機能低下症と記載があり、
コートリル40㎎/日(朝3-昼0-夜1)と記載がありました。
以前から処方されていたコートリルですが、量が足りなかったようでした。

この入院で調整された量により、吐き気は以前よりマシになり
食事も摂れるようになりました。

元気を取り戻した彼は『犬を飼いたい!』と入院しているベッドの上で
ペットショップの犬を検索しまくり、何匹か候補を挙げてくるではありませんか。。

犬は大好きだけど、これからまた入院があったりしたら?
飼うなら大切にしてあげたいのに、お留守番が多くなってしまう。
でも闘病で自宅にいる彼の支え・励み・癒しになる可能性も高い。

彼は実家でもずっと犬がいる生活をしていたので犬を飼うことは慣れていました。
意思を尊重したい反面、何も言うことができない私。
自分自身の家もまだある、彼の体調も不安定で心配なので自分の家に帰れない。
こんな状況で即答することはできなかったのです。

 

 

※悪性黒色腫の闘病内容が全ての方に当てはまる訳ではございませんのでご了承ください

無事、千葉からがんセンター中央病院(築地)に救急搬送いただき到着後から早速検査です。
症状から脳転移を心配されましたが、この段階では脳転移はなく先生方もホッとしていました。

ゾメタの副作用の熱はだいぶ落ち着き始めていましたがとにかく首が痛い。
首が痛いから顎も痛い、頭も痛い。枕の高さも難しい。
頸椎の転移はこんな状況を引き起こしていました。

オキノームを飲みたくても首を上に向けることすら痛く、レスキューも飲めない。。

当然入院となり、まずは痛みをコントロールすべく
レスキューのオキノーム以外で初めての医療麻薬が点滴されました。

医療麻薬のせいなのか、痛みが強かったせいなのかわかりませんが
彼は幻覚を見ていました。
『隣の部屋のテレビが天井に映ってる!』
『あそこにステージがあって、マイクがあってね!!』
会話はできるのに、変なことを口走っていてまた新たな状況にショックを受けました。

幻覚が見えるせいでベッドに立ち上がってみたり…
転んだら大変なので、看護師さんに状況を伝えました。

彼は夜、動けないようにさせられた!
と、翌朝激怒のラインが届きました。。

幻覚症状はだいぶ収まり始めていたようなので
恐らくそれは本当だったんだと思います。

仕事が終わってから病院にいったところ
幻覚が見えたことを覚えていて、本当に見えていたんだけど

僕、変だったよね?と、ようやく普段の彼に戻っていました。

医療麻薬のおかげで無事痛みは抑え込むことができ、ゴールデンウイークの苦痛が嘘のようでした。


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彼は車が大好きで運転も大好きで。
四駆に乗っていたのですが、ハンドル切るのすら堅くて身体に応えるという状況で
2019年2月に新しい車に出会え、体調に無理なく運転できるセダンへ乗り換えを行いました。

そう、考えてみれば1月はあんまり車に乗らなくなっていた。。
体調のバロメーターが車に乗るか乗らないかだったとも思えます。

3月下旬、副作用の状況が芳しくない中、新しい車で2週連続で温泉にいきました。
1週目は千葉県南房総で、2週目は栃木県那須へ。

振り返ってみればこれが最後の旅行でした、、
私は車の免許を持っていなかったので運転を替わることもできず
役立たずだったな、、

そして4月、骨の転移もあることから色んなブログを読み漁っていた私はランマークかと思っていましたが、
オプジーボとともにゾメタを初めて点滴することになりました。

ゾメタは初回、副作用がでることが多いと説明を受けました。
高熱が出やすいと。

ゴールデンウイークで病院も臨時で開いていたり、お休みだったりする中
4月30日に初のゾメタを受けました。

副作用の出やすい彼は、翌日からしっかり高熱が出始めました。
高熱の副作用がでるかも、だったらなんで解熱剤処方してくれなかったんだー!
と言いながら、耐えていました。

スポーツドリンクと冷えピタで熱を凌いでいましたが、
同時に首と頭が痛いと…身動きが取れないほど苦しんでいました。

ゴールデンウイーク中だし、、どうしよう。。
ここまでの緊急事態に出くわしたことがない私は中央病院(築地)に電話してみましたが
当直の先生は皮膚科の先生ではなくどうすることもできず、
翌日だったでしょうか、なんとか状況を改善すべく東病院(柏)に電話し
食事も摂れないのでとにかく診てもらえないかお願いしてみました。

主治医が中央なので治療はできないけど、診ましょうと言ってくれました。
運転免許を持っていなかった私はタクシーでなんとか連れていき
ビーフリード輸液を行ってもらい、痛み止めの座薬を入れてもらいました。

連れて帰って落ち着いたかと思いきや、やはり状況はあまりよくなりませんでした。
確か5月6日だったと思います、その日は中央病院がゴールデンウイーク中臨時対応ができる日程でした。
皮膚科の先生に電話して、状況をお伝えしたところ『救急車できてください』と。

千葉県から都道府県またぎで救急車で運んでもらえないと思っていた私は
心底ありがたかったです。

救急隊員の方と中央病院の皮膚科の先生が直接話をし、無事救急搬送していただくことができました。

 

 

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転移が分かった後に気が付いたら家にあった『エンディングノード』。
これを見た時もショックでした。

今となってはわかりませんが、自分の死をはっきりと意識した時だったのかもしれません。。
彼はどんな気持ちでこれを買ったんだろう…

彼を失った今、常にどんな気持ちだったのかを考えるだけで胸が締め付けられます。
たくさんたくさん寄り添ったつもりでも彼の100%に応えてあげられていたのか。

その頃、私は彼の副作用の心配があったのもあり、
自分の家がありながら、彼の家にほぼ住んでいる状態になりました。

2月の放射線治療の頃、平行してオプジーボを行っており、
副作用の皮膚の痒みはアレロック、そしてこの頃から痛み止めとしてオキノームを
処方されていました。

嘔吐が始まってからは、副腎皮質ホルモンで炎症やアレルギー症状を抑える薬としてコートリル、
胃・十二指腸潰瘍、逆流性食道炎の薬としてタケキャブを処方されました。

吐き気のせいで思うように食事が摂りづらい時が出始め
エンシュア・リキッドも処方してもらうようになりました。

処方された薬で思うようにコントロールがつかず、
悪心や嘔吐・食欲不振・腹部膨満感を改善するメトクロプラミドが吐気時用として処方されるようになりました。

程なく、タケキャブに追加でファモチジンも処方されるようになりました。
この頃から薬がどんどん増えていったのです。


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がん治療と仕事の両立とよく聞きますが、どうやったら両立できるというのでしょう。
彼の場合は会社が理解ありとても良くしてくれましたが、必ずしもそうとは限りません。
治療にはそれなりの費用がかかります。
当然時間も必要です。

何より、副作用は辛くて仕事どころではないのが現状かと思います。

2018年8月の入院中にソーシャルワーカーさんに教えてもらったことは以下の通りです。

①会社に所属しているようであれば、ギリギリまで会社に頼らせていただく
②傷病手当金
③障害年金

2人に1人が癌の時代と言われ、どこまで理解してもらえるのか。
2人に1人罹患するなら、2人に1人は看病することになると思っています。
即ち、癌に係わらない人はいないのかもしれません。

こんな状態で日本はどうなってしまうのでしょう?
本当は癌はもっと治る病気ではないのでしょうか?
日本の罹患率が諸外国に比べてあがっているのは、高齢化のせいだけなのでしょうか?
 

これが遺族感情なのかもしれません。

2018年12月、ステージ4の判定でわかった転移は
右肩の骨、肺(後に胸骨だったと判明)、頸椎でした。

オプジーボ開始前に、まずは分子標的薬や使えるかどうかの
BRAF遺伝子変異検査を行いました。
陽性であれば、まずはタフィンラー&メキニストから開始できる…

切り札は多い方が良いに決まっています。
しかし、眼の結膜から発症した悪性黒色腫は残念ながら陰性でした。

そうなると、分子標的薬ではなく免疫療法になります。
開始当初はヤーボイ&オプジーボ。
奏効率が高いと言われていて、ここから化学療法が開始となりました。

免疫療法が悪性黒色腫に承認される前は
ダカルバジンが一般的だったようですが、彼はそれを信じていませんでした。
眼科時代の主治医が『正直言ってお勧めはできない』と言っていたそうです。

タイミングはよく悪性黒色腫に免疫療法が承認された後だったので
早速、ヤーボイ&オプジーボを開始しました。
併用療法の上限が決まっていて全部で2回だったか、3回だったと思います。

副作用は皮膚の痒みから始まりました。
最初に処方してもらったのは外用薬。
塗って痒みを抑える、それでも痒い…
あとは怠さに襲われていました。

2019年1月、副作用もありながら骨の痛みが出始めました。
そこで2週間に1回のオプジーボと同時に放射線を行うことになりました。

オプジーボはがんセンター中央病院(築地)で、
放射線はがんセンター東病院(柏)で。

段取りが終わり2月になり東病院で放射線治療を受け
痛みは落ち着きました。

その頃、吐き気が始まりました。
夜、突然嘔吐したのです。
初めての時はキッチンのシンクまで間に合いましたが、

2回目は外出から帰宅して玄関で間に合わず
玄関の扉やインターホンに嘔吐してしまいました。

彼の身体に何が起きているのか、私もパニックだった気がします。


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無事退院をして9月、陽子線の治療が始まりました。
『予防』として開始しているので
私はすっかり安心していました。

この時はがんセンター東病院(柏)に付き添うことはなく
一人で行ってもらっていました。
何回通ったか、記憶がおぼろげですが通院中に1度、陽子線の機械故障で
治療が延期になったことがありました。

機械ですからね。。
そういうこともあるんですね。

陽子線の治療として副作用は怠さがあったと思います。
怠い怠いとよく言っていました。

治療が終わり、次は予定していた免疫療法です。
通院はまたがんセンター中央病院(築地)に戻ります。
主治医が皮膚科に変更になったのはこの時だったと思います。

11月にCTか、PETCTかを受けました。
検査の結果を聞くことなく、週末に彼の大好きな温泉旅行に行きました。

彼の病気を少し忘れかけていたときに
彼から『転移が見つかった』と告げられました。

病院からの説明の紙にはステージ4と記載されていました。
この時の衝撃は今でも忘れることができません。

 

 

※悪性黒色腫の闘病内容が全ての方に当てはまる訳ではございませんのでご了承ください

入院中食欲が落ちることなくいつも通り旺盛でした。
がんセンター中央病院(築地)のご飯は病院食としては美味しく
いつも残さず食べていました。

それ以外に彼の好物を銀座で買って病院にいくのが定番でした。
こんなにたくさん食べられていたのにね…

さて予防治療についてです。
放射線にあたっては退院後から開始しましょうというお話でしたが
毎日通うのはなかなか疲れてしまいます。

彼の家は千葉でがんセンター東病院(柏)の方が近かったので
そちらで受けることはできないか相談してみたところ、
毎週水曜に中央病院(築地)にいらっしゃっている
東病院(柏)の放射線科の先生をご紹介いただけました。

入院中の水曜日に面会させていただき
すんなり東病院(柏)で放射線を受けることが決まりました。

通常の放射線ではなく、陽子線にしましょう!と。
悪性黒色腫に対し陽子線は保険適用だったため
より効果的な選択肢を出していただけました。
陽子線の方が効果も高く、患者にとってダメージも少ない、
通院する時間も少ない!と来たら断る理由はありません。

やっぱり彼はついてるな!
あとは、傷を治して退院するだけ!
当初、トータル3週間強くらいの入院になると言われていましたが
結果、2週間強で退院することができました。

退院後は東病院(柏)の放射線を
中央病院(築地)ではオプジーボを開始するため、主治医は皮膚科に変更になりました。


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2018年8月の大手術当時、彼は46歳、ついでに私は41歳。
癌の治療に対しては外科的手術のみでここまで来て、
元々、スポーツ大好きな彼の体力はまだまだ人並み以上。

ICUは予定より少し早く出ることができました。
その後はナースステーションから一番近い2人部屋に…

ナースステーション近くは何かと騒がしく
全く落ち着かない!とぼやいてました。
ぼやく元気があってよかった!(と思う私…)

それから数日でいつもの4人部屋窓側へ!
やっと落ち着いたね(笑)

友人・同僚もお見舞いにきてくれるようになりました。
顔の半分は大きなガーゼで保護されていますが、
だいぶいつもの彼に戻ってきた気がします。

ガーゼで保護されている顔の皮弁は、腿の筋肉ではなく
腹筋とお腹の皮膚を移植したそうでした。

お腹にあった小さな2つのホクロは顔の皮弁で再会となりました。
お腹も縦に20センチくらい縫合した傷がありました。

頭頸科の先生から術後の説明がありました。
『若いし体力があるから傷が治るのが早ければ退院は早まります。
 その後なんだけど、手術で目に見えるものは取りきれたけど、
 予防の意味で放射線をやってオプジーボをやりましょう』と。

本当に本当に予防だと思っていました。

目に見えるものは取り切れても、目に見えないものはきっとすでに
活動を始めていたのかもしれません。


※悪性黒色腫の闘病内容が全ての方に当てはまる訳ではございませんのでご了承ください

無事、手術が終わり1週間程度はICU。
管に繋がれ身動きも取れず、自由はなく本当に辛かったと彼も言っていました。

誰でもそうだと思いますが、自由が奪われるほど辛いことってないですよね。
とてもイライラしているのも感じました。

ICUの面会は家族だけですが、私は正しくはパートナーだったものの
いつも病院に一緒に行っていたことと彼の家族も了承してくれていたので
面会が可能な家族一覧(用紙に面会可能者として氏名と連絡先を記載します)に
入れていただくことができました。

1時間面会したら1時間休憩をいれなくてはならない方式でしたが
朝から晩まで出たり入ったりしていました。

ICUのインターホンを鳴らすたびに看護師さんに『またかいな!』って
思われてた気がしますが、彼が喜ぶなら1分でも一緒にいたかったから。

術後の彼は、顔面を切って縫合していることで腫れもあり
とても喋りづらそうでした。

季節はちょうど夏、甲子園で彼の母校が出場していて
テレビは唯一それだけ見た気がします。

ICUに入る時、持ち物の全てにフルネームを記載しなくてはならないのですが、
今でもそれが残っています。

本やタオル、洗面用具、、持ち主の彼はいないのに、、
あの時の記憶だけが残っています。


※悪性黒色腫の闘病内容が全ての方に当てはまる訳ではございませんのでご了承ください