「冬うた」

というタイトルで書くには、

すでに花粉も飛んじゃってて遅いかもだが、

もう少し寒い日は続くし、

まあ冬季オリンピック開催中ということでいいかと。

 

いつかも書いたが、130223

冬に聴きたくなるのは、

チャイコフスキーやムソルグスキーにストラヴィンスキー、

ラフマニノフにグラズノフにプロコフィエフ、

リムスキー=コルサコフ、そしてショスタコーヴィッチ。

つまりなんとかスキーとか、なんとかノフという、

オリンピック・アスリート・フロム・ロシアの作曲家たちだ。

こいつこれを言いたかっただけじゃん。

 

中でも一番人気はやはりチャイコフスキーだろう。

今日の「冬うた」は、

チャイコフスキーの交響曲第5番だ。

3つの後期交響曲4、5、6番「悲愴」は、

とてもよく演奏されるポピュラーな曲だが、

その中でも5番は標題が付いていないにも関わらず、

とてもポップで人気が高い。

わが父も好きだった。

 

僕はチャイコフスキーを聴くと

ポップという言葉が思い浮かぶのだが、

ポップというのはなんだろうと考えると、

どれだけたくさんの人が1回聴いただけで

「いいね」と言うかどうか。

つまり心が動くか、感動するか、

そんなことを図る物差しではないかと勝手に考えている。

大きく言うとそんな感じじゃないかと。

 

我々のやってるポピュラー音楽、大衆音楽ってぇのは

なんといってもそこを目指すジャンルじゃないかと。

 

何回も聴いてやっと好きになってるようでは、

ポップという言葉からは離れていくんではないだろうか。

 

でクラシック音楽の中でポップだなと思うチャイコフスキー。

その「白鳥の湖」第2幕より「情景」の冒頭、

オーボエのフレーズを

生まれて初めて聴いた時にキュンとしない人は

人類にはいないんじゃないか、みたいな。

 

弦楽セレナーデの冒頭を聴いて

悲しくならない人はいないんじゃないか、

みたいな。

これ20年も続いているのか。


そんなわけでチャイコフスキーの交響曲第5番は

冒頭から45分後のフィナーレまで

ずっとキャッチーな (つかみのいい) 状態が続き、

ポップな交響曲ではないかと思う。

 

前置きが長くなったが、

今日は大作曲家が書き残したスコアを変更してもいいのか

という問題について考えてみたい。

以前からここで書きたかったんだ。

でもそんな難しい話ではないんだ。

 

この“チャイ5” の第4楽章冒頭では、

第1楽章から短調で奏され続けたメインテーマが長調になって奏される。

そして最後のクライマックス、そのメインテーマが

弦楽器群の大ユニゾンによって弾かれたのち、

もう一度ダメ押しでトランペット (with オーボエ) 

により高らかに吹奏される。

 

そして盛り上がってきた最後のところで、

弦楽器群、木管群もメロディに加わり

この交響曲45分ほどの頂点!を迎えるのだが、

だが、

チャイコフスキーが書き残したスコア通りだと、

その部分でなんと、

それまで誰よりも大音量で鳴り響いていた

主役のトランペット (の1st) が

そこまで吹いてきたメロディラインを外れて、

上から2声目のラインにとどまってしまうんである。

チャイコフスキーが書いたスコアのトランペットパートは

in Aの譜面 (ドのところがラ) で分かりにくいので 

in C にしてみた。

 

EX-1

問題はピンクで囲った501小節目。

ミの音が4発。

 

その部分が一番わかりやすい演奏↓。

最初から全部聴いていくと大変なので

47:36からどうぞ。カラヤン&ウィーン・フィル。

 

僕が中高生の頃もここなんか変だな、と思っていた。

弦楽器群、木管群は上がっていくのに、

トランペットはとどまり、

最後の最後で盛り上がりきらないのだ。

 

この部分の主メロはこうだ↓。

 

EX-2

 

その後、いろいろな演奏をあさって聴いていくうち、

トランペットがこの部分までも

主メロを吹く演奏に出会うことになる。

そうだよ、この方がいい、かっこいいじゃん。

カラヤン&ベルリン・フィル。

10:20〜

 

これは勝手な想像だが、チャイコフスキーの時代、

彼の近くにいるトランペット奏者の中で、

45分演奏してきて

最後にメインテーマをfff (フォルテシシモ) で吹き、

バテバテになった状態で

ミの音から4分音符で順番に上がって行って

高いシを立派に鳴り響かせられる者がいなかったのだろう

と思われる。

この曲のキーがあと半音、

もしくは全音低ければ無事に吹けたかもしれない。

それくらい金管楽器は音域にシビアである。

 

少なくともこの曲を書いた時点での

チャイコフスキーにとっては、

高いシはトランペットという楽器の

音域外と思っていたに違いない。

 

しかし、

最初から書き直すにはあまりに重労働、

というかもちろん、

交響曲全体の響きが変わってしまうからあり得ない。

クライマックスでトランペットが

高らかにテーマを演奏するというアイデアは変えたくない。

 

よし、しょうがないからここはこれで手を打とう、

オケ全員の fff のサウンドで

なんとなく盛り上げて通り過ぎるしかないと、

大作曲家とはいえ苦肉の索のアレンジ、、、

となってしまったに違いないのだ。

 

長い交響曲の中の、

たかだか1小節程度の話をしているわけだが、

ポイントは502小節目のアタマのシの音、それこそが、

まさにこの一大交響曲の頂点であるということだ。

こののち終結部、つまりアウトロがあって曲は終わる。

 

そして、時代は20世紀となり、

録音技術によって

世界中の演奏を世界中の人々が聴けるようになる。

ロシアの指揮者ムラヴィンスキーや

ロジェストヴェンスキー、スヴェトラーノフらは

譜面通りEX-1で演奏している。

ロシア以外ではショルティ、先ブログの小澤征爾、バレンボイムらも。 

 

しかし、

カラヤン (2つ目の方↑)や、バーンスタインは、

「本当はチャイコフスキーだってこうしたかったに決まっている」

とばかりに、主メロEX-2に行かせてみた。

もちろん近代における奏法の確立と優秀な奏者の出現、

それと開発の進んだ楽器が揃うことによって実現したことだと言える。

 

が、しかし、

チャイコフスキーが書き残した譜面を

勝手に変えてしまっていいのかという問題が

これからも永遠に付きまとうのである。

 

次にあげるのはその問題と格闘している画像。

 

EX-1の例だが、

スヴェトラーノフは

トランペットがそのまま fff だと

501小節目でヘンになるをわかっているのだろう、

その2小節前からトランペットの音量を抑えて

違和感なく通り過ぎるようにしている。11:00〜

これはロシアの先輩ムラヴィンスキーがやってたやり方。

 

朝比奈隆もEX-1だが、

オケ全体で頂点を迎えるよう、

絶妙にうまいことやってのけた。46:30〜

 

しかし、

僕がたくさん聴いてきた中で一番好きなのは、

EX-2によるこれ。

バーンスタインが珍しくボストン響を振ったライヴ。47:45〜

名手アルマンド・ギターラと

エムパイア・ブラス・クインテットでも活躍した

ロルフ・スメドヴィックの両首席奏者が並ぶ

トランペット・セクションが最高だ。

 

バーンスタインが大袈裟で暑苦しく、

テンポもちょー遅くしていって

吹いている方はたまったもんでないが、

見事に付いて行って期待に応えている。

 

この機会についでに、もうひとつのポイント。

お気づきの方もいるだろうが、

先のスヴェトラーノフの方はトランペットセクションは2人だが、

その他は4人いる。

 

これは通称「倍管」といって、

譜面通りだと1stと2ndを1人ずつの計2人で吹くところを、

豊かな音量と人数感ある音色にするために

倍の人数でいこうという、

いかにデカい音を出すかを競い合った

20世紀を象徴する戦法である。

木管セクションも各2人のはずが倍の4人いる。

 

しかし21世紀に入り、音量を競う時代が終わり、

よりシャープなタイトな演奏を追求する風潮が広まり

(って勝手に僕が言ってるだけだが)、

倍管はどこもやらなくなった。

が、現代でもトランペット・セクションでよく見るのは、

1stにアシスタント(通称アシ)を付けて

クライマックスだけ2人で吹き、

2ndは1人のままの計3人になってるやつ。

これだと倍管特有の下パートの暑苦しさがなくなり、

上パートのラインが浮き上がる。

 

話を戻そう。

そして、現代ではEX-1とEX-2とではどうかというと、

僕が見渡している限り相変わらずの半々である。

 

僕が2年前に京都で京響を聴いたときは、

譜面通りの1stと2nd1人ずつの

2人で吹いているにも関わらず、

EX-2をキメていてブラボーだった。

この結論に辿り着きたくて

その日のブログの終盤わけわからない記述になっていた。

151126

 

古い演奏ばかりになってしまったから、

アシなしでEX-2を吹く現代の演奏。44:08〜

今世紀も素晴らしい。

ってもういいか。

 

もし僕が指揮者だったらもちろんEX-2で行く。

チャイコフスキーが第6番悲愴交響曲を書いたのち、

死期を悟り、人生を振り返り

「あーー5番のあそこのトランペットがなぁ」

と悔いていたに違いないから。

 

と、こんないちポップスアレンジャーの

薄っぺらで浅い意見なんて置いといて、

もし現代の偉大な指揮者さんたちに会えるなら、

どうお考えなのか聞いてみたい。

とても深い頑ななご意見をお持ちなのか、

意外と「そんなことどうでもええわ」

と一蹴されるのか、予想がつかない。

 

今回はこの部分だけに的を絞った記述になってしまったが、

って、

だいたいここだけを次々に聴くなんて、

作曲家、演奏家に対して失礼きわまりない

けしからんブログだ。

 

この曲は第1楽章冒頭のクラリネットから

その世界へ一気に引きずり込まれ、

第2楽章には有名なホルンの大ソロもあるし、

第3楽章は明るいワルツだし、

最後まで実にドラマティックである。

みなさんもこの冬に是非ともお見知り置きを。

 

最初に聴くのにいいCDは

結局やっぱカラヤンになってしまうか。

クセがなくベルリンフィル全員が抜群にうまい。

karajan warner

カラヤンの幾多に及ぶ録音から1971年の演奏。

 

ついでに4番も6番もという方には

僕が持っている2枚組もいいが、

こいつの弱点は、

この5番が1枚目と2枚目に分かれてしまうことだ。

karajan warner2