最近、検察庁法改正に関する著名人の政治的発言に端を発しながら、報道における「公平」について議論が盛り上がりました。

 

 私は「誰が何言おうが(法に反しない限り)自由。その自由な意見の積み上げこそが民主主義である。」という単純な見解を持っています。なので、特定の政治、政策を大絶賛する人、大批判する人、その言論の自由については100%尊重しています(勿論、内容については反論する事は多々あります。)。個人的な利得のための賛美、批判であっても、(法に反しない限り)それは自由であるべきです。なので、「安倍晋三総理が憲法改正を口にする事罷りならん。」も、「親韓的言論は言論空間から排除されるべきである。」も、いずれも受け容れません。

 

 では、「公平」についてですが、私は少し前にこのような記事を書きました。テーマは国連における「中立」と「公平」の考え方の違いでした。ただ、この記事については、あるマスコミ関係者から「自分達の勉強会で使いたい。」とのお話がありました。報道における「公平」を考える時にも同じことが言えるので使いたいという事でした。

 国連のミッションについても、放送法でも、求められているのは「公平(impartiality)」です。「中立(neutrality)」ではありません。ここがとても日本では誤解されています。 「中立」とは、誰にも肩入れしない事です。「公平」とは、すべての関係者を平等に扱う事です。若干雑な定義になりますが、中立は「平等に関わらない」、公平は「平等に関わる」というふうに私は理解しています。

 報道に「(厳格な)中立」を求めるのであれば、恐らくは特定の政治、政策を論評する番組など作る事すら出来ません。賛同する人間、批判する人間、すべてを排除する事が必要となるからです。大半のコメンテーターは出禁です。「事実」だけを淡々と述べる番組しか作れないと思います(それとて事実への評価は入りますからかなり難しいです。)。私はこれまでそういう厳格な意味での「中立」を主張をしている方を見た事がありません。

 

 そして、実際には放送法は「公平」を求めているわけですが、それはすべての関係者を平等に扱う事ですから、一定のルールの下、賛否色々な人を番組に出して意見を戦わせる事で良いはずです。ここで重要なのは「一定のルール」です。何を土台に平等扱いするのかという点は非常に重要なポイントです。私は「虚偽を排し、多様な視点を取り上げる」というのが土台だと思っています。

 

 BREXITの時、英国の報道関係者はこの「中立」と「公平」という観点から悩みに悩みます。離脱派の理屈には明らかに嘘が紛れ込んでいました。「EUから抜ければ、分担金を払わずに済む。それをすべて国民保険に振り向けて充実させる。」と主張していました。普通に考えれば「たしかにEUに分担金払っているけど、EUから補助金を貰っている。その差額は?」となるはずです。英国の報道関係者はかなり悩んだようですが、最後は嘘と知りつつも排除する事はせず報道していました。これはどちらかと言えば「中立」に近いです。どの国にもこの手の苦悩というのはあるものです。

 報道における「中立」を主張するのは、その背景に「良い所どり」を企図する場合が多いです。「中立」を部分的に取り出して、①自分の気に入らない見解を排除する、②真実でない見解を流す、という目的に使われている事が多いように見えます。本当に中立を実現しようとしたら、「恐らくはあなたの意見も排除されますよ」という事なんですけどね。

 報道関係者は「公平」とは何ぞやを真剣に考えるべきであり、また、不当に中途半端な「中立」の要求を撥ね退ける気概は持ってほしいです。