ここまでのCOVID-19対策を見ていて、日本においては「同調圧力」の果たす役割がとても強い事に留意せざるを得ません。私は大きく分けて、以下の4つが極めて特徴的だと思います。

 

① 制度が同調圧力を前提に作られている。

② その同調圧力は、全体としては極めて効力を持っている。

③ ただ、社会の構成員の数パーセントには同調圧力は効果が無い。

④ そして、行政が同調圧力をマウンティングしてくる事がある。

 

 ①については、今回の対策のベースとなった新型インフルエンザ等対策特別措置法の作りが同調圧力を前提としています。つまりは要請、自粛、最後は見せしめ(従わない人の公表)です。同調圧力が機能しない世の中であれば、このような仕組みは無意味です。つまり、「お上が『やらんでくれ』と言っとるけん、そんな事するもんじゃなか。」というのが暗黙のルールとして織り込まれているわけです。欧米では機能しないだろうな、と思います。

 

 しかし、②のように日本ではそれがとてもよく機能します。欧米のメディアでは、日本の対策は間違いなくポイントを外しているはずなのに、何故自分達よりも上手く行っているのか、という「不思議の国日本」という論調が出始めています。あんな緩いやり方なのに、より厳しい措置を取っている自分達よりも遥かに被害が抑え込めているのは不思議でならないという事です。私は日本人の綺麗好きもかなり影響していると思いますが、欧米人にこれを言ってもなかなか納得してもらえません。

 

 ただ、勿論、③のような事態はあります。憲法上の自由という観点からは、こういう同調圧力の効果が無い人が居るという事は健全な社会であるという見方も出来ます。制度上禁止されているわけではない以上、その制度の中での自由は最大限享受するという発想は(COVID-19対策とは別の次元で)自由主義社会のベースだろうと思います。

 

 そして、今回、結構国レベル、地方自治体レベルで④を何度も見ました。幾度となく要請、自粛の念押しが行われていました。そこまで行くと、もう既に要請でも、自粛でもないのではないか、と思えるくらいでした。書かれていないルールで社会の「気」を作り出し、その「気」で個人を包囲していくやり方ですなのですが、これを行政がやっていました。現行の制度上、それしかやり方が無いわけですが、この手法はその根源において「村八分」と同じです。戦時中に「非国民」というレッテルを張って、特定の個人を追い詰めたやり方と似ています。

 

 なので、私は「要請、自粛ではなく、きちんと禁止なら禁止とルール化すべき。」という意見を有しています。3月の新型インフルエンザ等対策特別措置法改正時に、厳格な歯止めを入れた上で同調圧力に依拠しないルール作りをしておくべきであった、と私は思っています。きちんと説明すれば、多くの国民の理解を得る事は出来ただろうと確信しています。

 

 強い措置への反対がある事はよく知っています。私も決して積極的に推奨しているわけではありません。ただ、「同調圧力」に過度に依拠したやり方は、その本質においてむしろ危険なのではないかという思いがあります。「クリアカットに決めずに、和の中でやっていくのが日本的なのだ。」、それは真実の一面なんだと思います。しかし、それはその価値観が共有出来ているサークル内だけで通用する議論だという事は忘れてはいけません。価値観を共有しない人間にとっては、ただの村八分のツールでしかありません。

 

 ちょっと話が飛びますが、私はメークアップアーティストとしてアカデミー賞を取ったカズ・ヒロ(旧名:辻一弘)さんの言葉が忘れられません。カズ・ヒロさんは、日本生まれですがアメリカに帰化しました。アカデミー賞を取った時に「私は日本を離れ、アメリカ人になった。というのも、too submissiveな文化にウンザリしたんだ。日本では夢を叶えるのが難しい。」と言っています。この「too submissive」が、私の言う同調圧力です。私はこのカズ・ヒロさんの言葉がずっと頭に残って離れません。

 

 

 そして、アカデミアの世界でも、結構多くの日本人が同調圧力を嫌がって海外に移っています。「同調圧力」を前提とした社会の気は、日本から有能な人材を遠ざけては居ないだろうかと思うのです。

 

 途中からちょっと話が飛びました。勿論、この「同調圧力」をベースにした社会の気がすぐに変わるとは思いません。ただ、制度の中に「当然、それは機能するもの」という前提を置くのは控えるべきではないかというのが私の見解です。