森友学園関係で、国会の提出した決裁文書の「書き換え」はあったという報告がそろそろ来そうです。「書き換え」という言い方そのものに、少しでも「大した事ないんですよ。」と主張しようとする意図を感じます。「共謀罪」を「テロ等準備罪」と言い換えるのと似ています。「名は体を表す」と言いますから、この点も要注意です。

 

 今朝、TV番組を見ていると、財務官僚OBの小黒一正さんが「こういう刑法犯になる話は、仮に事務次官であっても指示できない。更に言うと、検察ですら押さえ込む自信のある人間でないとそういう指示は出せない。」と言っていました。その通りだと思います。

 

 メディアは財務大臣の進退について取沙汰しています。しかし、財務大臣は監督責任という意味での責任はあると思いますが、色々な事を捻じ曲げた張本人ではないはずです。何故ならそんな事をするメリットが財務大臣にも、財務省にも全く無いからです。この曲ではないですけど、財務省全体からすると「We didn't start the fire.  It was always burning....  No we didn't light it.  We tried to fight it.」という気分のはずです。 「俺が始めた話じゃねえだろ。」という事です。

 

 財務大臣の進退なんてのは、物事の本質的には「名目上の引責」でしかなく、殆ど意味がありません。財務省は「歪められたミッション」を押し付けられただけでしょう。そして、一旦「背任」である国有財産の不当売却に足を突っ込まされ、それを取り繕うために「公文書偽造」をやらざるを得ず、とどんどん深みに嵌まっていったのです。その押し付けた人間は勿論、財務省内には居ません。政権の奥深い所に潜んでいます。

 

 現政権の異様さはもう包み隠す事が出来ません。政権自体がもうそんなに長くは続かないでしょう。しかし、政権が終わればそれで終わりというものではないはずです。今、起こっている事を私は絶対に赦せません。特に自死した近畿財務局職員の方は、役所のヒエラルキーの中で弱い立場にある方です。そういう弱い立場の方に死を選ばせてしまう事に繋がった元々の意思決定は誰が行ったのか、行わせたのか。財務大臣の進退といった名目上の引責で終えるのではなく、奥深い所に潜む張本人を引きずり出さないといけません。