先の臨時国会で、「信教の自由」について質問主意書を提出いたしました。内容はとても簡単でして、これです。これだけだと何の事が聞きたいのか、分からないかもしれませんが、それなりに問題意識を持ってやっている事です。

 

 私が特に関心を持っているのが「信仰しない自由」についてです。これが入ってくるかな、どうかなと思っておりましたが、答弁書はこれでした。やはり、そこはしっかりと入ってきました。 

 

 なお、私の問題意識に入る前に、答弁書をおさらいすると、信教の自由とは以下のようなものです。

 

● 信仰の自由(何らかの宗教を信仰し、又は信仰しない自由)

● 宗教上の行為の自由(宗教的な行為を行い、又はこれに参加する自由及びこれらを強制
されないこと)

● 宗教上の結社の自由

 

 「一般に」とか、「などであると解されていると承知している」という逃げが打たれていますが、概ねこの3類型に分けられているということでいいでしょう。過去にこういう答弁は多いのかなと思ったのですが、あまりありませんでした。

 

 本題に戻りますと、私はいつも日本における信教の自由を巡る議論は「何を信じようが勝手じゃないか」という面に重点が置かれ過ぎていると思っています。それだけを取り出してみれば勿論100%正しいのですが、信教の自由を勝ち得る不断の努力をしてきた西欧等の歴史を見る時、そこだけに重点が置かれるのはちょっと違和感があります。

 

 西欧における信教の自由とは、まず、強大であった教会権力のくびきから離れることが大前提にあります。キリスト教を信仰しなくても構わないという事です。そこから、精神的に独立した個人が導き出され、その独立した個人が信仰する自由を持つ、そういう論理構成になります。なので、信仰する自由と同等のレベルで信仰しない自由があります。

 

 例えば、フランスでは1905年にかなり厳格な政教分離原則を決めた政教分離法があります。その中では、公共の秩序に反しない限りの内心の自由と厳格な政教分離が書かれており、その上で国家の宗教への関与を厳しく制限しています。その背景には、ただ「信仰する自由」を保障するだけでは克服できないくびきがあったという事です。それが信教の自由の文脈で言えば「信仰しない自由」であり、また、国家レベルでは「政教分離」であるという事でしょう。

 

 実際に、フランス共和国は現在でも非常に宗教との距離感には慎重でして、ゆめゆめ国家が宗教に関与する事が無いよう、個人の信教の自由(信仰し、又はしない自由)を害しないよう細心の注意を払います。そして、フランスで国家と宗教との関係を論じる際、最も使われる言葉は「liberte de croyance(信仰の自由)」ではありません。「laicite(世俗性、非宗教性)」という言葉です。よく報道でも使われる言葉です。

 

(ただ、難しいのが、信仰する自由と政教分離原則がぶつかるケースです。学校に女子生徒がブルカを被って登校する事をフランス政府は禁じました。公共のスペースに宗教性を持ち込んではならないという政教分離原則を持ち出しての論理構成でした。フランス社会にあるアンチ・イスラム的な雰囲気を政治的に持ち込んだような個人的印象がないわけではありませんが、いずれにせよ、究極の所で信仰する自由(ブルカを被る自由)と政教分離原則が対立してしまう事があるわけです。)

 

 このあたりの背景抜きに「何を信じようが勝手ではないか」だけが先走りしてしまうことにはとても懸念を覚えます。特に国家の指導者がそれだけを主張するようになってはいけません。国家と宗教との関係は歴史的に微妙なものである以上、信仰する自由には、その対として信仰しない自由がある事を常に認識しておかなくてはなりません。

 

 具体例を出すと色々と難しいので、理念だけを書きました。この辺りは憲法審査会でも議論になるでしょう。