【以下のエントリーは、FBに書いたものを加筆、修正したものです。】

 大学1年の時、教養学部の「政治学」の授業で、既に鬼籍に入られている佐藤誠三郎教授が「相対主義は、その相対主義自体が相対化される時、一切の価値判断が出来なくなる。」という趣旨のことを言っておられました。たしか、湾岸戦争絡みでのコメントだったように記憶しています。

 当時はまだ大学入学直後でして、「何の事かな?」と思っていました。分かったようで分からなかったような感じでしたが、今、考え直してみると、相対主義という価値判断基準そのものに相対主義を当てはめると、何処にも拠って立つ価値判断基準が無くなるというのがよく分かるようになりました。

 今、パリのテロ事件の問題が起こっています。色々な論評がありますが、「パリのテロを非難するのと同様に、アラブ世界の困難を非難しないのであれば、それはおかしい。」的なものが散見されます。パリで起こった事象を相対化して見る取組みの一つだと思います。

 その言論自体が間違っているわけではありません。ただ、その言論の前に「テロは絶対的に非難されなくてはならない。」という絶対的価値観を置かないのであれば、ただの免罪符を与える行為にしかならないわけです。そして、そういう絶対的価値観を置かないまま、相対化だけが先に立つ議論が見られることに懸念を覚えます。

 もう一度、原点に立ち返ると、「Aを言うなら、Bも言わないと正しくない。だから、Aだけを言うのは正しくない。」というところで止まってしまうことは、そもそも、その考え方そのものが「そういう考え方もあるけど、そうでない考え方もある。」という結論になります。結果として、「で、何が非難されるべきなのか。」という根本の価値観の部分が無くなってしまいます。

 こういったかたちの議論の相対化は、目を凝らすと、社会のあちこちにあります。一見尤もらしく聞こえます。多様な論点を展開しながらやると、とても知性的に聞こえることがあります。

 今になって、佐藤誠三郎教授の言っていたことが身に沁みます。「テロはどういう状況であっても、絶対に許さない。」、すべてはここからだと思います。