ユネスコの「世界の記憶」にいわゆる南京事件関連資料が登録されたということで、国内で非常に問題になっています。微妙な問題なので書き方には気を付けたいと思いますが、慎重に思う所を正確に書いていきたいと思います。

 まず、メディアでは「世界記憶遺産」と呼んでいることが多いですけど、正確には「世界の記憶(Memory of the World)」です。何処にも「遺産(heritage)」という言葉は出てきません。いわゆる「世界遺産(World Heritage)」や「無形文化遺産(Intangible Cultural Heritage)」よりはグレードが下がります。そして、あれは諮問委員会の審査を経て、最終的にはユネスコ事務局長が採否を決定します。

 今のイリーナ・ボゴバ・ユネスコ事務局長は、実はバン・ギムン国連事務総長の後釜として有力候補の一人です。「東欧」、「女性」ということで好条件を備えています。国際政治上、国連事務総長になりたければ、P5(安保理常任理事国)の意向に真っ向から反旗を翻せません。今回の件で逃していけないのはここです。そして、今、日本が主張している「『世界の記憶』の登録のあり方については改革が必要」というのは、そういう属人的な圧力が掛からないようにすべきということを言っているのだと思います。それは正しい改革の方向性でしょう。馳大臣のユネスコ総会でのパフォーマンスに期待したいと思います。

 ただ、本件についてあえて水を挿すような事を言うと、いわゆる南京事件の存在「そのもの」(注:ここは強調しておきます)を、「日本国として」(注:ここも強調しておきます)国際的に問題視することは得策で無いと思います。それは国際法及び日本国が採用してきた解釈によって、かなりの部分は蓋がされている事であって、国家間で提起しても国際的に共感がまず得られないのみならず、むしろ日本の国際的なポジションを下げる可能性があります。

 以下、国際法上の問題点になりますので難しいですがお付き合い下さい。

 まず、サンフランシスコ平和条約第11条には「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し(以下略)」とあります。この「国外のその他の連合国戦争犯罪法廷」には「南京軍事法廷」が含まれます。

 そして、「受諾(accept)」の意味については、私が岸田外務大臣に質問して以下の答弁を得ています。

○岸田国務大臣 この極東軍事裁判については、どの部分についても、国と国との関係において、当該裁判について異議を述べる立場にないと考えます。(緒方注:南京軍事法廷も同様)

 よくサンフランシスコ平和条約第11条で受諾した「judgments(裁判)」というのは「death by hanging(絞首刑)」といった刑の宣告だけだという論理を持ち出す方がおられますが、この考え方を日本は採用していません。同じく、私が岸田外務大臣に質問した際の答弁です。

○岸田国務大臣 御指摘の資料の中にもありますように、極東国際軍事裁判所のこの裁判、ジャッジメントの内容となる文章、三部から構成され、裁判所の設立及び審理並びに根拠法、そして侵略及び太平洋戦争等における事実認識、そして起訴状の訴因についての認定、判定及び刑の宣告、これ全てが含まれていると認識をしています。

 そして、ご承知の通り、東京裁判や南京軍事法廷において、いわゆる南京事件を原因として有罪判決が出ています。極東国際軍事裁判における松井石根大将が有名です。

 更に、サンフランシスコ平和条約は、今の日本の主たる同盟国や友好国が締約国になっています。同条約第11条は、日本が国際社会に復帰する際の条件みたいなものでして、これが覆されることはそもそも平和条約全体のストラクチャーを壊すものだと捉えられるべきものです。そこにチャレンジする行為は、国際社会上、誰からも共感を得られないと思います。日本人の感覚として納得できない事も多いのですが、それが厳然たる国際社会の現実です。

 上記で南京事件の存在「そのもの」を、「日本国として」問題視するのは止めておいた方がいいと書きました。あえて強調したのは、例えば中国提出資料の事実関係の誤りとかを指摘することは排除されませんし、民間ベースでそれ以上の事をやることも勿論、日本は自由な国家ですから可能です。ただ、国と国との間では異議を唱えないという立場であることは踏まえなくてはなりません。その矩を超えた時に、日本国に付けられる称号は「revisionist(歴史修正主義者)」でしかありません。これは「ナチスのガス室は無かった」と主張する人達と同じ水準まで下がることになります。

 これらを踏まえれば、「世界の記憶」に南京事件が登録された関係で、日本国としてチャレンジする点は「世界の記憶」の「政治利用」に集中すべきだと思います。これだと、国際社会的に通りがとても良いのです(というか、これ以外の主張はまず通らないのです。)。

 あと、最後に日本の対ユネスコ分担金、拠出金を止めるのかどうかという議論について一言。

 まず、報道が混乱しています。止めようとしているのが、分担金なのか、拠出金なのかがよく分かりません。国際機関においてこの2つは全然違います。拠出金は自主的なもの、分担金はユネスコ憲章に基づき総会で決定される義務的な色彩の強いものです。ある方が「分担金は町内会費、拠出金は町内でやる山笠の協賛金」と言っていました。上手いなあ、と感心しました。大体、そんなイメージでいいです。

 この違いをはっきりとさせない報道が多いですね。拠出金を止めるのより、分担金を止める方が遥かに重大なことはご理解いただけると思います。拠出金を止めるのは不満の表明くらいで止まりますが、分担金を止めるのはユネスコに完全に背を向けること(脱退の数歩前)、それくらい違います。分担金を止めてしまうと、今、長崎のキリスト教関連遺産群の世界遺産登録、(私の地元の)戸畑祇園山笠、博多祇園山笠を始めとする山笠、鉾、山車の無形文化遺産へのシリアル・ノミネーション、こういった日本各地が心待ちにしているものまでをも犠牲にすることになります。

 そこは政策判断なのでしょうが、普通に考えたら拠出金減額くらいで不満の表明をするくらいがギリギリなのかなと思います。