ノーベル平和賞は御承知のような結果になりました。人権・教育に尽力するマララ・ユスフザイさん、カイラシュ・サティアルティさんの益々の活躍を祈念します。

 ところで、今年のノーベル平和賞には「憲法9条」を対象とする「日本国民」という推薦がありました。この思い自体は理解できるところです。「日本国民」というカテゴリーが、ノーベル平和賞のスタイルに合わないわけでもありません(かつて、EUがノーベル平和賞を取ったこともあるくらいですし)。

(なお、ノーベル平和賞への推薦のハードルは低いです。今年は300弱の推薦があったはずです。)

 ただ、気になったのが、このノーベル平和賞を通じて、国内の議論、特に「集団的自衛権」の議論に影響を与えようとする言論がかなり聞かれたことです。私は、憲法9条に関する考え方とは一旦切り離して、この手法には極めて批判的です。

 簡単に言えば、「ガイアツ」に頼ろうということです。国内での議論が思うように運ばないから、外国の権威に頼ってそれを思うように誘導しようというのは「ガイアツ」そのものです。かつて、日米構造協議においても、国内の改革の議論が輻輳して決着がつかない時、それをアメリカ側から言わせて、国内の議論を誘導した勢力がいたことはよく知られています。

 ただ、そうやって「ガイアツ」に頼ると、外国に付け入る隙を与えてしまうことになります。「ガイアツ」さえ掛ければ、日本国内は動くと思わせることのマイナスは看過しがたいものがあります。実際、当時のマイケル・アマコスト駐日大使は「ミスター・ガイアツ」と言われるまでに国内の制度に介入してきました。それがすべて「ガイアツ」を利用した日本人のせいだとは言いませんが、「ガイアツ」を掛ける隙を見せてしまったことは否めません。要するに「ガイアツはタダではない」ということです。

 そんなものに頼って、国内の議論を動かそうとすること自体が、日本の国家としての脆弱性のような気がするのです。同じ流れで、私は集団的自衛権の問題について、例えばオバマ大統領の介入を求めるようなレターを国会議員が出すことにも批判的です。日本は世界に冠たる国家であり、国内の議論に外国の助太刀は要らない、そう強く信じています。

 ちょっと話が逸れますが、かつて、現職時代、「個人通報制度」というものについて一文書きました(ココ)。簡単に言うと、人権侵害等が国内制度で十分に救済されないとする時、個人が人権関係の条約機関に通報し、審議、勧告を求めることが出来るという制度です。日本はこの制度を採用していませんが、「すべき」という議論があります。これは制度としてはとてもよく理解できるのですが、議論を聞いていると、日本における裁判の結果に不満のある人が「ガイアツを掛けよう」というふうに聞こえることが多々ありました。もっと言えば、この制度が採用された時、私は一番に通報される案件は(普通の訴訟案件ではなくて)いわゆる「歴史認識問題」系のものだと想像しています。

 国内の問題は、国内で解決する、当たり前の事だと私は思っているので、そこにタダではない「ガイアツ」を持ち込もうという事自体が変だと思いますし、もっと言うと、中長期的には日本にとってマイナスに働くと思うのです。

 しかも、この手の「ガイアツ」論者には、えもいわれぬ「欧米信仰」があるような気がします。「欧米の人が言えば権威が高い」→「国内議論への影響も大きい」という考えが背景にあるのだとしたら、不健全以外の何者でもありません。よく目を凝らしてみていると、日本には意外に多いのです、この欧米信仰。

 「ガイアツ」に頼る発想が見え隠れすると、途端に、元々のピュアな思いがいかがわしく見えてしまうのです。「憲法9条」をめぐる考え方以前の問題として、この発想は止めた方がいいでしょう。