あれは21年前の1993年7月、外務省の試験の二次試験、憲法の口頭試問で時の事でした。憲法学の大家である芦部信喜教授を前に、私は何を聞かれても何一つロクな回答が出来ず、「困ったなあ」と思っていました。

 その時、何故か直前の刑法か何かの授業で聞いた「法律の効力の発生時」の話になり、私はそのままこの話をしました。芦部教授から「そうですね。」と言われて、何となく場が和んだのを思い出します。ともかく私はそれ以外の国際法でも、経済原論でも苦笑いをして誤魔化している時間が長かったので、特に印象的な思い出です。

 日本の法令では「いつ知り得たか」ということにとても意を用います。それは上記で引用した最高裁判決のような発想が原点にあるからです。「本当に知ったかどうか」ではなくて、「知り得たかどうか」がとても重要です。その知り得る手段がとても複雑であろうが、そんなことは二の次でして、ともかく「知り得た状態」に持ち込むことが最優先されます。

 もっと拡大して言うと、日本の制度の作り方というのは「裁判になった時勝てるかどうか。」という発想がかなり前面に来ます。裁判になった時勝てるように制度を作ってしまった上で、そこから先の具体的な運用における挙証責任を自分達(行政側)から国民側に転換してしまえば、責任を回避できるからです。

 「きちんと知り得る状態にあった」、「きちんと制度を運用できる状態にあった」ところを確保することが最優先されるというのは、ある意味合理的だとは思いますが、その一方で国民側からすると「知り得たかもしれないけど、自分はそんなこと知らなかった。」、「そんな制度、複雑過ぎて分からない。」というところでフラストレーションを溜める原因になります。

 電気用品安全法の改正によって、中古エレキギターの取引が止まりそうになり大騒ぎになったことなど、法令が改正された段階では誰も気づきませんでした。お役所的論理から言えば、「きちんと法令は中身も明らかにしているし、国会審議も通った。デュー・プロセスは全部尽くしている。」ということなんだろうと思います。しかし、誰も気付かなかったし、気付きようがなかったわけです。

 最近、情報化社会、高齢化社会が進む中で、このお役所側の「知り得る状態は確保されている」というのと、国民側の「知らなかった」の差がとても広がっているように感じます。細かい制度を調べる事に難を抱えている高齢者の方々の相談の中に、ネットでちょっと調べれば解決するものがかなりあります。だからといって「ネットが使えないのはそちらさんの責任。」というのも切ないですし、人として如何なものかとと思います。しかも、現代社会は情報が溢れています。それを取捨選択する責務をすべて国民に転換するのは無理な話です。

 今日、空き家対策に関する話で、「色々な手法を駆使すれば解決できる話なんだけど、それをこの80歳の高齢者に求めるのは無理だろう。」と痛感した中で思ったことです。そして、その「知り得る状態」を実際に「知る状態」にまで持っていく努力をするのは政治の役割だとも思いました。

 抽象的かつ雑な話ですけど。