前回のエントリーに対するコメントとして、「憲法98条との関係で(国連憲章にある)集団的自衛権はどう考えるべきか。」というご指摘がありました。とても貴重なご指摘です。


 まず、憲法98条を見てみたいと思います。


【日本国憲法98条】

1. この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2. 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。


 この98条2項の規定を以て、「国連憲章51条にある集団的自衛権を行使できるようにするのが、憲法の要請である。」という議論がよくなされます。


 ということで、国連憲章51条を見てみたいと思います。


【国連憲章51条(抜粋)】

この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。(以下略)


 ただですね、この規定をよく読めば「しなくてはならない」という義務規定ではないのです。あくまでも「権利を害するものではない」という「できる」規定です。これが、例えば「個別的又は集団的自衛の固有の権利を行使しなくてはならない」であれば、憲法98条の規定との関係で、当然にして行使するための法整備をしなくてはなりませんが、そこまでは求められていません。


 元外務省条約課課長補佐として、実務上の話をすると、色々な条約交渉でとても激論が繰り広げられるのは、「義務規定」にするか、「権利規定」にするかというところです。一般論として、英語で「shall」が入ってくると義務規定です(なお、国連憲章では「害するものではない」というところに「shall」が入っている義務規定ですが、権利の行使が義務になっているわけではありません。)。どんな条約でも、ある規定を全部の国に守らせようとする側は、助動詞の「shall」を入れるために頑張ります。


 逆に、「義務規定」を外して「できる規定」にしたい側にも、それなりの技があります。一番ベタなのは「make efforts(努力する)」という規定でして、これは「やる努力はするけど、努力の結果、やらなくても構わない」という意味合いです。その他にも、「may(できる)」、「endeavour(努力する)」という(助)動詞を間に挟んだり、「where appropriate(適当な場合には)」というフレーズを押し込んだり、と色々な手法があります。


 そして、実務上はそういう「できる規定」になってしまえば、国内法上、何らの対応をしなくても内閣法制局から「国際法と国内法の不一致」を咎められることはありません。条約上の「できる」規定に対して、何の対応もしていないものは山のようにあります。例えば、国内で一部激論があった「ACTA(偽造品の取引の防止に関する協定)」 に著作権侵害を親告罪にするという規定が入りかかりました。最終的に規定は入りましたが、あくまでも「できる」規定ですので、その規定をベースに日本は何もしていません。


 そして、国連憲章も「個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」ですから、いわば「できる規定」の一類型です。少なくとも、憲法98条を介して当然に行使しなくてはならないとはなりません。あとは、憲法を頂点とする国内法規の中でやるか、やらないかを判断するだけです。あくまでも、そこは日本としての独自の判断です。


 なかなか小難しいところですけども、時折指摘されるので一文書いてみました。