そろそろ大学受験も一段落だろうと思います(後期試験が残っていますが)。先日、母校東筑高校の保護者の方から、かなり突っ込んで話を聞かれたので、その時にお話したことを中心に思うことを書いてみたいと思います。なお、私は「23年前」「国立大学」「文系」の受験をした人間なので一定のバイアスがあります。


● 一次試験と二次試験とは根本的に違う。

 私はこれを「間違いを減らす試験」と「正解を増やす試験」の違いだ、と言うようにしています。センター試験というのは、基本的に「全問正解からどれだけ間違いを減らせるか」という力が働きます。しかし、二次試験は違います。あれは積み木のように点数を積んでいく試験です。


 具体的に、私の行った大学のケースで言うと、二次試験は440点満点。私の学部は当時で言うと、多分220点強くらいが合格ラインではないかと思います(今は少し上がっているとも聞いています。)。そして、300点を取れる人間はほんの一握りです。と考えると、100点満点で換算すると、50点強で合格で、しかも、68点取れる人は殆どいない、ということです。


 つまり、全部出来る必要など全くなくて、細かなところで点数を積み木のように乗せて行って、100点満点の50点に到達しようということです。この「全部出来る必要がないし、そもそも無理」という所がとても大事です。これは何処の大学でも同じでして、概ね「これくらい出来ればいい」という相場観があります。そして、それは100点満点の80点とか90点とか言う数字ではありません。相場観を見て、そこに到達するために何処でどの程度積むかを考える発想を大事にしたいものです。そこには「(出来そうにない)問題を捨てる。」、「取りあえず書いてみて小さな点を稼ぐ。」という技術論も出て来ます。


● 文理に関わらず、数学は大事にしたい。

 理系の方には「数学が出来れば、大体物理も出来るようになる。一粒で二度おいしい。」と言っており、文系の方には「数学を捨ててしまうと、途端に志望の視野が狭くなる。」と言っています。


 文系で数学がある程度出来ると、とても「得」をします。しかも、数学は「限界効用が高い」と思います。私の大学で言うと、一問20点ですから、上記の通り比較的狭いレンジでひしめき合っている時にその出来栄えは合否をかなり左右します(単に私が国語が苦手だっただけなのかもしれませんが。)。


 文系の大学受験で、数学を捨ててしまうと、途端に目指せる大学の範囲が狭くなってしまいます。それはもったいないことです。数学は難しいと言われますが、私はあれは「(一種の)暗記科目」だと思います。大体、高校数学の中でパターン化されているものが200個くらいあると思います(感覚的なものです。)。そのパターンを覚えれば、後はそれを適宜当てはめるだけです。独創的なアイデアを発揮しなければ、なんて思う必要はありません。


● 英語は好きになろう。

 文理に関わらず、今の受験生の方々が社会人になる頃、私達の世代よりも「英語を使うこと」が当然にして要求される機会は格段に多いでしょう。英語が出来るかどうかは、将来的にとても重要になります。受験英語で学ぶものは、かなりレベルの高いことです。それを通常のコミュニケーションに繋げて行くのは、(残念ながら)別の努力が必要ですけども、基礎能力としてはそれで十分です。


 私の口癖は「アメリカ人は誰でも英語を話す。」ということです。当たり前の事ですけども、「誰でも」話すのです。であれば、一定の努力をすれば、誰でも出来るようになるものです。そして、「言葉を学ぼうとする動機は何でもいい。」のです。何度もこのブログで書いていますが、私は「グロリア・エステファン のような人と知り合いになって話をしてみたい。」という極めて分かりやすい動機を、高校生の頃にずっと思っていました。そして、それがヴァネッサ・ウィリアムス に代わり、途中からはフランス語でアクセル・レッド に代わっていきました。それでいいのです。


● 私文の社会はヒドいものが多い。

 先日、鈴木寛前参議院議員も書いていましたが(ココ )、私文の社会の受験問題は何とかならんのかといつも思います。ともかく重箱の隅問題が多くて、悪しき暗記教育の最たるものを助長していると思います。なお、鈴木前議員の論考はとても面白いです。是非ご一読ください。


 世界史で、オットー1世に戴冠した教皇の名前がヨハネス12世であること、北魏・西魏のリーダーで北周の基礎を作ったのが宇文泰であること、そんなことを記述で書かせて何の意味があるのか、私にはさっぱり分かりません(が、こういう問題が頻出します。)。何故、オットー1世が戴冠し、800余年に亘る神聖ローマ帝国が出来たのかとか、北魏・西魏が鮮卑族であり、北方騎馬民族と中国王朝との関わりがどうなのかと言った視点を問うのが筋でしょう。そういう良い問題を出す大学もあります。


 こういうマイナーな知識を問う問題作りは簡単なのです。山川出版社の参考書で頻出度合いの低いものを見て行きながら、かなりマイナーな部分を取り出して、「さて、何でしょう?」とすればいいだけです。そして、問題がそうなっている以上、受験生は暗記マシーン化していくことを要求されます。


 鈴木前議員も書いていましたが、私は受験改革について、まずは私学の雄である早稲田大学を始めとして、こういう出題を止めさせるようにすることが先決だと思います。早稲田が止めれば、全国にその流れは波及するはずです。色々制度をいじるよりも、そもそも重箱の隅をつつくような問題を出すことを止めさせるべきです。


 「数学を捨てて、私文志望にしたら暗記マシーン化することを要求される。」、極論するとこういう状況です。とても健全だとは思えません。ただ、現状ではそういう感じですから、私文志望にする方はそうせざるを得ません。


● 歴史は学んでおいた方がいい。

 英語の欄でも書きましたが、これからの若い方はどんどん「外」に出る事を要求されます。その時、基礎知識として歴史の事を知っている事はとても大切です。それは文理関わらずです。欧米の大学教育は特に一般教養、リベラル・アーツを重んじますので、そういう「仕事とは直接関係ないかもしれないけど、知っていることが当然視されていること。」というのがあります。


 我々は、人類の長い営みである歴史から多くを学びます。どんな分野であろうとも、歴史を知っている事は大事なことです。無理して細部を暗記する必要はありませんけども、大きな流れくらいは学んでおくべきだろうと思います。そして、日本の高校教育はそれに足るだけの材料を提供しています。


● 浪人生はまずは夏まで頑張ろう。

 残念ながら浪人した方は、これから夏までが勝負です。後ろからどんどん現役生が追っかけて来ます。私の経験でも、高3の8月よりも高3の12月の時の方が成績が上がっていました。浪人生は逃げ切れるか、現役生は鼻の差でかわせるか、そういうイメージではないかと思います。


 私は現役生には「夏で少なくともC判定を目指そう。」と言い、浪人生には「夏でB判定を取ろう。」と言っています。少し無関係ですが、現在別の意味で浪人生である私も似たような発想でいます(笑)。


● 有名進学校は恐れなくていい。

 いわゆる有名進学校は、別人種の人達がいると思いたくなりますが、あれはただ「カリキュラムが進むのが早いだけ」です。私は大学一年の頃、そういう学校の子女を教える塾で講師をしていましたけど、なんと中1で中3までのカリキュラムを終えます(そういう事をやっていなかった私が教えるのは変な話ですけど。)。そして、概ね高1で高3までのカリキュラムを全部終えます。後は受験に目がけてまっしぐらです。


 なので、地方の公立高校の方は高1、高2くらいではとても離されている感じを受けると思いますが(私も思いました)、それは単に授業の進み方が早いということが根本にあります。既に習っている人と、まだ習っていない人で差が付くのは当たり前のことです。コツコツやっていけば、それなりに差は縮まっていきます。


 ホンネの部分をかなり素直に書きました。異論もあると思います。