大学入試の季節になりました。高校時代から非常に不思議に思っていることの中に、「大学受験の歴史であまり近・現代史が取り上げられない。」というのがあります。今がどうなのかは知りませんが、私の時は「何となく」高校3年の10月くらいのところで通常の授業が終わっていくのですが、教科書の後ろの方は「何となく」取り上げられないまま終わったような記憶があります。本当に「何となく」でした。それは私が通った福岡県立東筑高校が変わっているのではなくて、全国何処でも似たような感じです。


 何故、そういうことが可能だったかというと、近・現代史はあまり大学受験で出なかったからです。受験で出ない可能性が高ければ、学ぶインセンティブは著しく下がります。


 ということで、昨年の東京大学の世界史日本史 の試験問題を見てみました。一般的に、国公立大学入試では東京大学の問題が(奇をてらわない、という意味で)スタンダード的なものと看做されており、他大学も参考にしている向きがあります。それにしても、全く近・現代史がありません。一つ、世界史で「プラハの春」の指導者ドプチェクを答えさせる問いがありますけども、こういうクイズ形式の問いはそれ自体がダメです(私はてんでダメでした。)。東京大学にしてこの程度ですから、少なくとも国公立大学ではなかなか近・現代史は取り上げられていないのではないかと思います。


 意外に近・現代史が多いのは大学入試センター試験です。世界史A世界史B日本史A日本史B と見ていくと、近・現代史が結構入っているなと思います。ただ、センター試験はマークシートですから、歴史の見方そのものに踏み込むことは難しいです。出ている問いも無難なものが多いです(それが悪いと言っているわけではありません。ある意味、入試センター試験の限界みたいなところもあります。)。


 何故、近・現代史が取り上げられないかというと、簡単に言えば「取り上げ方が難しいから」です。私はこの方のような言い方 はしませんし、特定の団体のせいにすることも適当ではないと思います。しかし、一番基本的なところでの「高校で近・現代史をもっと勉強すべし。そのためには大学受験でも取り上げるべし。」という問題意識は共有したいと思います。冒頭で「何となく」と言いましたけど、大学入試関係者、高校の先生等、色々な方の間で「近・現代史はあまり出ないから、あまり力を入れなくてもいい。」ということについて、とても緩やかな、未必の故意とでもいうような状態があるのでしょう。


 歴史に思想性がないなんてことは絶対にありません。事実は抽出の仕方、並べ方だけで、そこに思想が入ります。私が昔、アルメニアという国に(プライベートで)行った時、泊まった家の子供の歴史教科書を見せてもらいました。勿論、アルメニア語は一語も分かりませんが、如何に昔アルメニアが広大な地域を指す概念であったか、そして、如何にトルコにボコボコにやられたか、ということが書いてあるのだろうと思わせる絵、地図がありました。そんなものだろうと思います。


 日本の今の世界史教育から受ける私の印象というのをココ に書いています。6年以上前のエントリーですが、認識は全然変わっていません。このエントリーに書いている通り、日本で学ぶと、世界の歴史というのは中国、中東、欧州(+アメリカ)の3文明によって回っており、あとはおまけという印象を受けるはずです。中国の歴史で、いわゆる「中原(ちゅうげん)」を中心に見るのは仕方ないのでしょうけども、北魏、北周、遼、金、西夏、元、清・・・、中原に覇を唱えた王朝の1/3くらいは異民族ではないか、唐を衰退させた安禄山はソグド人ではないか、と思います。


(ちなみに、話が飛ぶのついでに、知っていても何の役にも立たないトリビアですが、安禄山の「禄山」は、多分、アヴェスター語で「輝かしい美しさ」を意味する「ロクシュナ」から来ていて、現代の女性名にあるロクサーナ、ロクサーヌ、ロザンナに繋がっているはずです。TOTOスティング を思い出しますけどね。)


 また、話が飛びましたけど、歴史はいつの時代にも一定の思想性があります。だからといって、高校教育から未必の故意のようにして、近・現代史から視野から外してはならないと思います。大学の問題作成者の思想が入ってもいいではないか(今でも入っている)、それに伴う批判を受けて立つくらいの気概を持って、大学受験でもっと積極的に近・現代史を取り上げてほしいと思います。まずは、東京大学がやれば多分、ムーブメントとして全国に広がっていくでしょう。