憲法の「政教分離」との関係で、私がここ数年非常に興味を持っていることがあります。それは「無宗教の葬儀」です。


 何故、そういうことに関心があるかというと、「通常の葬儀の取り進めから何と何を落としたら、『無宗教』というカテゴリーに入ると認識されるのだろうか。」という問題意識があるからです。なお、まだそういう葬儀に参列したことはありません。ここは各葬儀場関係者の方々も悩んでおられるようでして、色々なご尽力をしていることがよく分かりましたが、最大公約数的なところを抽出すると「少なくとも特定の『宗派』に依拠しないスタイルで葬儀を運営するようにしている。」ということだと理解しました。


 そこで言う「無宗教の葬儀」というのは、「手を合わせる」、「死者を弔う歌を歌う」という行為までをも排除するということではありません。しかし、私が思うに「死者を弔う」という行為そのものに宗教性があるのではないかと思うのです。特定の「宗派」に依拠しなくても、宗教は成立するのではないかと思うのです。これは最後は「宗教」というものの定義次第で答えが変わります。


 ということで、言葉の定義としてよく参照される広辞苑を見てみました。そこには「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事。また、その連関的体系。(以下略)」と書いてあります。この定義ですと、かなり広範なものが宗教に含まれています。


 政教分離ということで、この定義に当てはまるものをすべて政治から完全分離してしまうと、変なことになります。千鳥ヶ淵で戦没者を弔うことすらアウトということになりかねません。「無宗教の国立追悼施設」も(その是非はともかくとして)成立し得ないということになるでしょう。「無宗教」と「追悼」という言葉が矛盾するということになりそうです。


 では、政教分離の「教」というのは、特定の「宗派」を指すと位置付けてしまえばいいのか、というところで、実はまだ私の思考は最後の一歩を踏み出せずにいます。それで良いと思うのですけども、もしかしたら思いが至っていない部分があるかもしれませんので結論を出しかねています。


 なお、私は政教分離そのものについては、それを厳格に適用すべきと考えています。何度も書いていますが、私は信教の自由として「信じない自由」、「宗教からの自由」を大事にしたいと思っています。一旦、宗教から自由になった独立した個人があり、その個人が「信じる自由」、「宗教への自由」を享受すべきである、と考える時、ベースの政教分離は厳格でなくてはならないと思います。


 かといって、政治関係者が伊勢神宮に行くのがダメだというつもりもありません。それを厳格にやり始めてしまうと、バチカンの国家元首であるローマ教皇、正式名称が「二大聖モスクの守護者」となるサウジ・アラビア国王との関係で変なことになってしまいそうです。ラマダンが終わった時、イスラム教国大使を総理官邸に呼んで食事会をやることがどうなのかということもあるでしょう。


 政教分離の「教」とは、(上記のような悩みはありますが)特定の宗派を指すものであり、かつ社交的・儀礼的なものはOKとするとした上で、そこまでスコープを絞りこんだ後は政教分離を極めて厳格に適用する、これでいいのかなと思っています。合目的的に考えれば、政教分離の「教」のスコープをこういうかたちで絞り込んだとしても、「信じない自由」、「宗教からの自由」による独立した個人の存立に影響しないでしょうから、特に政教分離の価値を損なうとも思えません。