大学受験の方式を変えようという方針が検討されているようです。


 ということで、私が受験した時の問題 をちょっと見直してみました。うーん、たしか結構出来たような記憶があるのですが、今となってはせいぜい問1+あと1問くらいが限界でしょう(この年の問1は例外的な易問扱いですから)。「よくこんなものが出来たものだ」と今更ながら感心してしまいます。


 どうも、方針としては「1点刻みのペーパーテストのみで判断するのを止めよう」ということが原点にあるようです。その先には「多様な学生を取りたい」ということもあるのでしょう。たしかに大学受験で合格ラインの周辺には1点のレンジに数十人単位でひしめき合っている可能性が高いです。そして、そこの差はとても小さなものです。その1点の差を追い求めるだけの受験生の姿はおかしいではないかという指摘には理解できるところがあります。


 大学に入った時、全国から来る同級生を見て感じたのは、「ああ、有名進学校というのは大学合格のための最短距離を歩むように出来ているんだな」ということでした。目指す大学に在学している先輩も多い、先生方も手慣れている、塾も充実している、ということで「何をやればいいのか」という情報と対応マニュアルが充実しているのです。大学時代、1年だけ有名進学校の生徒を集めた塾の講師をやっていたことがあり、あまりのマニュアル化に驚きましたが、同時に「こりゃ、地方の学生との比較では結構有利だよな。」とも思いました。


 今はこの情報ギャップはウェブ等を通じて相当程度解消されているはずですが、私の時はまだまだ暗中模索でした。何をやればいいのかもよく分からず、仕方ないので静岡県三島付近にある某通信添削会社 の添削をやりながら、時折、模擬試験を受けて「ああ、こんなもんか」と思って立ち位置を確認するくらいしか方法がなかったのです。


 たしかにそういうマニュアルに頼る手法ではなくて、1点に汲々とせず、多種多様な人材を採用するように受験制度を改善していきたいとする文部科学大臣の気持ちはよく分かります。


 ただ、今取り沙汰されているように、仮に一定の点数の範囲の生徒を選んだ後は面接等で選抜するといっても、結局はその「一定の点数の範囲」のところに入るか入らないかでは選抜があるわけです。何処かで線引きをするという行為を完全に排除することは絶対に出来ません。大事なのは、選抜をするという行為は何処かで必ず線を引くという基本的なことです。


 その上で、面接など「人物評価」ということのようですが、これがまた難しい。かつての「面接の達人」的な本が出てきて、就職戦線で問題になった「マニュアル君」が生まれてくるでしょう。内申点的なものを重視するというと、受験のために生徒会、部活動、社会活動をやろうみたいな歪な構図が出来てくるような気がします。昔、ある有名幼稚園のトップが「駅の行き先を尋ねたら『あっち』と答えるような子供がいいと思う」とテレビで発言したら、そういう指導をするお受験塾が出てきたという笑えない話がありました。それと同じことだと思います。


 最近、流行ってきているAO入試(自己推薦)についても、上手くいっているところと上手くいっていないところがあります。慶應の藤沢キャンパスは上手くいっているような印象がありますが、例えば、九州大学法学部は先駆的にAO入試をやってみたものの、学生の学力に差が出てしまったため止めてしまいました(最近、リニューアルして再開したみたいですが)。そう考えると、AO入試の前提となるところで、やはり1点を競うようなかなり厳しい選抜をすることが前提となります。


 むしろ、今、大学受験で起こっているのは「受験問題作成の外注化」です。予備校等に受験問題を外注している私立大学は結構多いと聞いています。国公立大学ではまだなさそうですが、やりたいと思っている大学があったとしても不思議ではありません。そういう力学が働く中で、「人物評価」を入れ込む時、何が起こるかというとやはり内申点重視になっていくでしょう。多くの学生を面接だけで判断していくのが難しいとなれば、これまた分かりやすい指標としての内申点です。


 そういう中、文部科学大臣の意向を踏まえ、受験に絞った解決策としていいのは、普通の受験勉強だけでは太刀打ちできない試験を導入するという発想です。記憶が正しければ、慶應経済、京大経済あたりはそういう試験(論文)を一部盛り込んでいたはずです。発想力、独創力を問う受験にしてしまうというのは、多分、文部科学大臣の考え方に近いのではないかと思います。ただ、これも大学側の負担が相当なものになります。それこそ、外部に発注したくなるかもしれません。


 あれこれ、脈絡なく書きましたが、私の思いは(1)文部科学大臣の気持ちはよく分かる、(2)ただ、何処かで選抜をするというところから目を背けてはいけない、(3)下手をすると高校での学生の行動パターンが歪になる、(4)大学側の負担も大きい、(5)むしろ受験問題のあり方みたいなもので対応できないか、という感じです。


 あと、文部科学大臣の思い(の一部)はむしろ大学での教育内容の方で対応すべきではないかと思うのです。マスプロ教育を出来るだけ止めて、ゼミ形式を重視するというのは一つのやり方です。私の大学は本当に「学校に行かなくても大丈夫」な場所でして、某学部の1-2年生は「ネコよりヒマ」とまで言われていました。ここに着手して、どんどん考えさせるような方向で大学教育を改革していくのがいいと思います。社会人になって一番重要だと思うのは、個別の専門分野ではなくて「考え方」そのものだと思うのです。理系でも、文系でも「考え方」そのものを養うことがとても大事だと思います。


 こういう教育問題、なかなかにして難しいです。画一的な大学受験制度に取り組む方策として、フランスは受験方式を多様化したことがあります。バカロレア(大学入学資格試験)に色々なバラエティを設けて、画一性を排除し、大学教育に出来るだけ多くの学生が触れることができるようにしました。しかし、今度は方式毎に序列が出来てしまったり、大学1-2年での退学者の増加という結果を招いてしまいました。どの国でも同じような問題があるようです。


 文部科学大臣の思いはとてもよく分かるのですが、処方箋としては予期せぬ結果を招くものになりはしないかと懸念します。