基本的人権のところです。ここは争いがかなりあります。


(基本的人権の享有)
第十一条 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。
(国民の責務)
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。
(人としての尊重等)
第十三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。


 第十一条自体は、別に悪くもなんともないのですが、実はこの第十一条は以下の現行第九十七条を削除したこととセットになっています。参議院選挙期間中のTVでの党首討論で安倍総理がそう言っていました。その追及をしたのは生活の党の小沢さんや共産党の志位さん。「良い指摘をするな」と感心しました。


【日本国憲法第九十七条】
第十章 最高法規

第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。


 この規定を廃止し、その理念はすべて新憲法第十一条で吸収するという説明でしたが、基本的人権を最高法規の章に置いていたことに対して、それを敢えて廃止して、すべて新第十一条で吸収するにはちょっと足らないのではないかなと思います。適用に際して、実体的に何か影響が出るとは思えませんが、こういう理念系のところを軽々に削除してしまうことは宜しくありません。


 第十二条については、「自由及び権利」と「責任及び義務」を対置することは意味のあることだと思います。ただし、「自覚し」というのはいわば内心の問題でもあり余計だなと思います。文章を切って、「自由及び権利には責任及び義務が伴う」と言いきってしまえばそれでいいと思います。


 なお、自民党の憲法草案に対する批判として、「憲法は国家、政府を拘束するものであり、国民に義務を課すものではない」というものがあります。言いたいことはよく分かります。私もその国民に義務を課すのは抑制的であるべきだと思います。ただ、今の憲法でも「納税の義務」、「義務教育を受けさせる義務」というものがあります。別に憲法が国民に義務を求めることそのものが間違っているわけではありません。あとはそれを何処まで(抑制的に)求めるのかということに尽きるわけであり、そこは法規範としての政策判断です。


 あと、「公の秩序及び公益」については明確に反対です。個人主義が強まり過ぎている今の日本に懸念を抱くというのは分からなくはありません。しかし、今の「公共の福祉」ですら、裁判実務ではかなり広範な使われ方をしています。「公」の概念の意味付けを政府が行えるということになれば尚更でしょう。具体的には「私の自由」は「公の秩序」に比して、そして、「私益」は「公益」に比して、常に下に置かれるということが何を意味するかは分かっていただけると思います。


 言論の自由が無制限でいいとは全く思いません。「大混雑の人ごみの中で『火事だ』と叫んでパニックを引き起こす自由はない」と私は思いますし、「テロリストに人権などない」というのが私の信念です。だからといって、すべてを「公の秩序及び公益」で制限し始めたら、非常に窮屈な社会になるでしょう。逆に経済的自由については、たしかに私権が強過ぎることの弊害があちこちにあります。考え方としては、現行の憲法解釈の通説に従うかたちで、精神的自由と経済的自由を書き分けてみるというのも一案かなと雑駁ながら頭に浮かびました。


 第十三条の「人として」は、「個人として」からの変更部分です。ここで言う「人」というのが何を含意しているのかがよく分からないのです。私的には、意味を明確にするためにも、ここは英訳がどうなるのかを見てみたいところです。「individual(個人)」としてなのか、「human being((存在としての)人)」としてなのかです。「respected as an individual」なのか、「respected as a human being」なのかでは全然意味が違います。知り合いの英語圏法学者に「respected as a human being」という表現について聞いてみたら、とても首を傾げていました。多分、最終的には「人(person)」に落ち着き、「人には個人という概念が包含される」という説明が出てくるのでしょう。ただ、その時にどういう法律的な効果が生ずるのかはまだ、分からないところがあります。「respected as a human being」という表現はいわば極論であることは分かっていますが、議論として、ここで言う「人」は「individual」と「human being」との間のどの辺りにあるのかということが不明確になるような議論は宜しくないでしょう。


 ここは批判的な指摘が続きましたね。自由民主党はある程度の「切りしろ」を用意していると見ることもできます。