内閣法制局長官人事ですが、幾つかのことがゴッチャに議論されているように思います。整理整頓しないといけません。


【人物としてどうか】

 少なくとも条約、国際法においては、この方に勝つ方はそうそういないでしょう。私は確実に負けます。そういう意味での「基本的な法的思考」については心配は要りません。

 ただ、法制局参事官(法律審査の最前線)を含め、内閣法制局勤務経験がないというのは、組織としてのツボ所が分からないというところはあるかもしれません。長官がすべての法律をそらんじている必要はありませんが、部長、参事官経験であれば当然知っているはずのところが抜けている可能性はあります。ただ、それはあの方ならある程度のブリーフィングで理解に至ると思います。

 なお、私が知る限りではありますが、あまり外交的に、政治的に大立ち回りが得意な方ではないと思います。そんな能力はそもそも法制局長官には求められてはいませんが。


【今回の人事はどうか】

 それは内閣の専権事項です。そして、任命される方がどういう人物であるかということも含めて、これは内閣(総理大臣)の責任の下で行われるだけのことです。いわば「政治主導」とでもいうものでしょう。それをあれこれ言っても詮無いことです。

 国会承認人事でもないので、その任命自体に国会があれこれ言うべき立場にもありません。出来るのは、そういう人事を行ったことに対する内閣総理大臣としての政治的な責任について問うことだけです。ただ、「何故、そういう人事を行ったのか」ということについて問うのは意味あることですが、「そういう人事を行ったこと自体」を問題視することはナンセンスだと思います。繰り返しますが、それは内閣の専権事項です。

 ちなみに、これまでは第一部長→次長→長官というラインが出来ていました。長官は最高裁判事に転出しそうなので良しとしても、長官含みでいた次長がちょっと可哀そうですね。政府は長官の面倒のみならず、次長の面倒もきちんと見てあげるべきです。


【憲法の解釈変更はどうなるのか】

 これはあくまでも解釈ですから、内閣の責任で行うものです。解釈変更をやっていいのかという問いがあるのかもしれませんが、「やってはいけない」という法理はないのです。一般論として法律というのは色々な解釈が可能です。それを内閣の判断で、ある一つの解釈を選択するというのは、常に政策判断的要素があります。

 ただし、仮に解釈を変更するとなると、これまで長年に亘って積み上げてきたすべてのストラクチャーを見直さなくてはなりません。 「変更する動機」、「変更した結果」については、それぞれ整合的に説明が付くようでなくてはなりません。これを再度論理的にすべて整合的に積み上げるのはかなりの作業です。しかも、そのストラクチャーは最高裁による違憲立法審査権に服さなくてはなりません。


 つまり、ここまでは簡単に言えば、「内閣法制局長官の件は人事政策の一環であり、後は政治的には『何故?』については内閣が説明責任を負う。あと、解釈変更する場合は説明責任は内閣が負い、最終的には最高裁が法的に判断を負う。」ということで、面白くもおかしくもありません。


 むしろ、私が気になっていることは全然別でして、これからどういう方向で物事が取り進めらるだろうかということです。マスコミもここを言わないのが不思議でなりません。


 仮に新内閣法制局長官が解釈変更で集団的自衛権について踏み込もうとする時、以下の内閣法制局の審査を経た答弁書の何処までを変更することができるかということです。この見解はずっと現内閣まで引き継がれています。


【質問主意書答弁書抜粋(昭和五十六年五月二十九日の衆議院議員稲葉誠一君提出「憲法、国際法と集団的自衛権」に関する質問への答弁書)】

 国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもつて阻止する権利を有しているものとされている。
 我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであつて、憲法上許されないと考えている。


 肝は後段の部分ですが、私は「・・・解しており」までは現行憲法上は広い一致があると思います。改憲派の石破自民党幹事長の話を聞いていても、同幹事長が問題視しているのは「・・・解しており」までの論理の結果、その後の部分に必ずしも繋がらないということです。


 そうすると、例えば以下のような新答弁はどうかなと思ったりします。


【私が予想する「来そうな」新答弁(後段部分のみ抜粋)】

 我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため、又は国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行う活動のため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解している。おり、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであつて、憲法上許されないと考えている。


 これだけです。自衛権というのは「必要最小限度の範囲にとどまるべき」であるとだけ言いきって、そこで終わるということです。そして、目的に国際貢献を入れたということです。これだと何が変わるかというと、いわゆる「四類型 」を可能とする素地くらいにはなるでしょう。


 この文面そのものに抵抗することは難しいでしょうね。加筆部分はいわば「(国際社会の変遷を踏まえた)当たり前のこと」でして、あとは単なる削除です。逆に言うと、これ以上答弁をいじることは難しいんじゃないかなと思います。しかも、憲法改正なしに「四類型」以上のことをしようとするのは、さすがに新長官でもやらないでしょう。


 そして、更に重要なのは、仮に今回の人事が解釈変更を視野に入れたものである場合、「解釈変更により四類型を可能とする」→「そして憲法改正で集団的自衛権一般について更に踏み込む」という取り進めをすることにしたと見ることができるということです。これは政治プロセス論としてとても重要です。


 メディアは「集団的自衛権」というと、すべて一緒くたにしますが、今回の長官人事で取り沙汰されるのは「あくまでも四類型を可能にするための限られた範囲の自衛権」であり、憲法改正で議論されるのは「集団的自衛権一般」なのです。そのあたりの仕分けがなく、ただただ「集団的自衛権容認」という言葉がメディアに踊るのを見ると、そのリテラシーの水準に疑問符が付きます。


 まずは解釈変更で「慣れ」を作ってから憲法改正に踏み込むというプロセス・マネージメントをやるということは、仮に事実であればそれは大きな政治的判断です。何故、そこに踏み込んだ記事が出て来ずに、「新長官、集団的自衛権容認へ」みたいな浅薄な記事しかないのかが不思議でなりません。