【以下は昔、書いていたエントリーをもう一度読み直して、それなりに大幅に手を加えて再掲するものです。なお、私は靖国神社を天皇陛下、内閣総理大臣等がわだかまりなく参拝できるようにあってほしいと思っているという人間です。そこは誤解なきようにお願いします。】


 2005年10月25日付で「衆議院議員野田佳彦君提出「戦犯」に対する認識と内閣総理大臣の靖国神社参拝に関する質問」に対して、政府が答弁書を出しています。まあ、靖国神社参拝についての政府の考え方は概ねこの中に集約されていると思います。少し長いですが、まずは答弁書からスタートです。


「靖国神社に内閣総理大臣が参拝することにいかなる問題があるかとのお尋ねについては、法的な観点から申し上げれば、かねて述べているとおり、内閣総理大臣の地位にある者であっても、私人の立場で靖国神社に参拝することは憲法との関係で問題を生じることはないと考える。また、内閣総理大臣の靖国神社への公式参拝(内閣総理大臣が公的な資格で行う靖国神社への参拝をいう。)についても、国民や遺族の多くが、靖国神社を我が国における戦没者追悼の中心的施設であるとし、靖国神社において国を代表する立場にある者が追悼を行うことを望んでいるという事情を踏まえて、専ら戦没者の追悼という宗教とは関係のない目的で行うものであり、かつ、その際、追悼を目的とする参拝であることを公にするとともに、神道儀式によることなく追悼行為としてふさわしい方式によって追悼の意を表することによって、宗教上の目的によるものでないことが外観上も明らかである場合には、憲法第二十条第三項の禁じる国の宗教的活動に当たることはないと考える。」


 よくできていると思います。さすがは内閣法制局の審査を経たものという感じがありありとします。政治的、社会的な様々な可能性をすべて検討した上で答弁書を確定していることがよく分かります。


 なお、この答弁が出た時、新聞・テレビは「小泉総理の靖国参拝は合憲との政府統一見解」みたいな報じ方をしました。一見、そうとも読めます。しかし、実はこの答弁書ではそんなことは一言も言っていないのです。(2006年当時の)政治的文脈から言って小泉総理の靖国参拝と関連性が強いように見えるかもしれませんが、全然関係ないのです。あくまでも一般論としての総理の靖国参拝について述べているだけです。


 ただ、小泉総理の話は既に昔の話なので、あまりそれをあれこれしても仕方ありません。私が重要だと思うのは、以下の2点です。


① 「戦没者の追悼」という行為は、そもそも宗教性を排してやれるのか。

② 宗教法人である靖国神社が行い、あるいはその中で行う行為の中で、宗教性のないものがあるのか。


 どちらも「宗教とは何ぞや」という根本的な問いにぶつかります。そもそも論として、戦没者の追悼という行為は、私は何処かで宗教性があるような気がするのです。それは特定の宗教法人との関係とかいったことではありません。そこを簡単に「専ら戦没者の追悼という宗教とは関係のない目的で行うものであり」と言いきっていいのかなと思います。これは宗教をどう捉えるかということであり、個人によって考え方が違うでしょう。


 そして、宗教法人である靖国神社が行い、またその中で行われる行為の中で、「宗教性があるもの」と「ないもの」を区分することが本当に出来るのかということも疑問に思います。そのメルクマールは何なんだろうとあれこれ考えてみても、答弁に掲げられている「追悼を目的とする参拝であることを公にするとともに、神道儀式によることなく追悼行為としてふさわしい方式によって追悼の意を表すること」であれば、宗教法人が関与したとしても「宗教上の目的によるものではないことが外観上明らか」という説明はあまりピンと来ません。


 むしろ、宗教性があるものであっても一定の要件を満たせば問題ないというふうに憲法改正する方が筋としてはいいと私は考えます(逆に言うと、今の憲法を厳格に解すると上記のような答弁書にしかならないわけで、答弁書自体を批判しているわけではありません。)。例えば、(宗教法人たる)伊勢神宮と陛下、内閣総理大臣の関係を見ても、宗教性のあるなしについて無理をした解釈でやるよりも、靖国神社で行う追悼行為にはすべからく宗教性があると認めた上で、それを可能とするようにした方がいいように思うのです。


 実は昔、私は「靖国神社の非宗教法人化」というアイデアに惹かれていました。そして、すべてを非宗教性の中でやっていけばいいではないかというとても機械的な方法がいいではないかと思いました。ただ、最近、色々と試行を巡らせてみると「やっぱり無理だよな」というふうに考えるようになりました。ということで、素直に憲法改正の中でそれを認める方がいいと思うようになっています。もっと言えば、「公私」の議論を深めていってしまうと、「私」があることが想定されない天皇陛下参拝の機会はどんどん排除されてしまいます。


 ただ、それを経ても幾つかの問題が残ります。多くの論点があるのでしょうが、私が引っかかるのは以下の2点です。


① いわゆる「富田メモ」 との関係

② 合祀を希望しない人との関係


 繰り返し述べますが、私は「天皇陛下、内閣総理大臣等が何の問題もなく参拝できるようにすべき」という考えです。その時にどうしても「富田メモ」のことが引っかかります。やはり、ここをクリアーにしなければ、なかなか天皇陛下の靖国神社参拝には至らないでしょう。上記にもあったように、当初、私は「非宗教法人化」した上でいわゆるA級戦犯に当たる方を外すという考えを持ったこともありましたが、さすがにそれは無理だと思い、今は時折議論される「宮司預かり」というアイデアは悪くないと思っています。


 あと、②は「信教の自由」と関わるわけですが、私は「信教の自由」として「信じない自由」というものを重視しています。多分、欧州、特にフランスの世俗性(laicite)を間近で見たせいだと思います。フランスでの信教の自由というのは、教会権力からの解放がまず先にあり、そこで自由となった個人に対して提供される「信ずる自由」というのがあるという構成です。フランスでは、例えばローマ教皇(バチカンの国家元首)のフランス訪問に対して公費を使うことの是非というのがこの世俗性との関係で大問題になったりします。日本では教会権力からの解放という部分が歴史的に希薄なため、「信ずる自由」だけが強調されます。そう考えると、仮に「遺族が合祀を希望しない」時のことをどう考えるかという難しい問題があります(戦没者御本人がどう考えておられたかという点は勿論別途あります。)。


 なお、「国立追悼施設」については、それを建立することには反対ではありませんが、だからといって靖国神社の存在、そしてその意味合いはなくならないでしょう。「靖国で会おう」と言って散華していった先人がいたことは誰にも否定できない事実です。


 あえて、議論のあるテーマを書きました。この他にも多くの論点があることはよく知っています。非常に大きく纏めると、私の本当の意図は「靖国神社は政治から一番遠いところに持っていきたい」ということです。