憲法96条の改正条項を緩やかにする改正について議論が進んできています。色々な方がこれについては発言しておられますが、理論的なところでの「そもそも論」が欠けているような気がしてなりません。私も何度かエントリーを書きましたが、問題意識をもう一度整理したいと思います。


 このことを考えるに際して、以下の3つの論点を提示したいと思います。最初は迂遠なアプローチに見えると思いますが、最後は96条改正の問題に繋がっていますので御容赦ください。


(1) 憲法は全部改正(事実上の新憲法策定)が可能か。

(2) (1)において改正すべからざる部分があると考える時、憲法96条はその中に含まれるか。

(3) (2)において96条が改正可能であるとする時、何処まで改正してもいいのか。


 (1)は言い換えれば、「日本国憲法を制定した行為を、改正する行為ですべて乗り越えることができるか。」という問い立てと一緒になります。全く新品の憲法を作るところまでいけるか、ということになります。非常に極論化すれば、憲法学の大家宮沢俊義教授のいった「8月15日革命論(主権の所在の移行は法的には革命であり、日本は昭和20年8月15日に革命が起きたとする学説)」的なことを起こしうるかということにすら繋がると思います(ちょっと言い過ぎですけど)。


 その時代毎に生きる人間の英知を信ずれば、制定時の理念がすべてではなく、制定と改正を同列に置き、全部改正も可能というふうに考えることができます。ギリギリ法的に詰めれば、「仮に全面改正が不可能であるとしても、全面改正が可能であるという改正を行えば、二段階で全面改正は可能になる」という考え方になります(芦部教授はこういう説です)。ただ、国民感情的にも「幾つか、絶対に改正してはならない部分がある」というふうに思っておられる方が多いのではないでしょうか。具体的に言えば、国民主権、基本的人権、法の下の平等、平和主義といった規定(例示的列挙)については、文章の微修正はあるとしても、その理念自体はどう改正しようとも否定してはならないと私は思います。多分、全部改正論者もそこは納得いただけると思います。


 そうすると、(2)の問いが出てきます。憲法96条が体現する硬性憲法の理念は一切いじってはならないのかということになります。もっと言うと、今の憲法96条は、日本国憲法の不可分の理念を体現しているものであるかどうかということです。まず、「硬性憲法」であるということについては、かなり多くの国民のコンセンサスがあるように私は感じます(あくまでも私の感じ方なので、それを押しつけるつもりはありません)。その「硬性」であることについては、日本国憲法の不可分として一体をなす部分だと思います。では、その「硬性」とは何ぞやということについては、色々な議論があっていいと思います。ここでは96条改正の可能性についてというよりも、「硬性」であることは維持されるべきであろうというところで議論を止めたいと思います。


 では、96条改正をするという時に「何処までやっていいのか」という議論になります。これは上記にあるような「硬性」とは何ぞやという問いになります。幾つかのケースで考えてみたいと思います。


① 憲法改正を閣議決定でやれるようにする。

② 憲法改正を国会のみで行えるようにする(国民投票をやらない)。

③ 憲法改正の国会の発議要件を下げる。

④ 憲法改正の発議を内閣とし、国民投票のみで行う。


 これ以外にも幾つかバラエティがあっていいと思います。純粋法学的にはどれをやっても問題ないのでしょうけども、①、②についてはさすがに受け入れるところにはならないでしょう。私はまず落としてはならないところというのは「国民投票に付す」という部分だろうと思います。そこを外していいとする論者は少ないと思います。


 では、発議をどうするかという部分になります。「国民投票に付すこと自体が硬性憲法であることの証左」という考え方もあるでしょうし、「国民投票は所与のものとして、発議のところで硬性であることを担保すべき」というふうに考えることもできます。後者である場合、発議の要件で「硬性」を担保するためにはどの程度のものが求められるかという議論になります。


 ・・・、ここまで書いてみて、「法律論」と「国民感情論」がごちゃ混ぜになってしまったなと反省しました。私の論の進め方の中で、違和感を持った方がおられるだろうと思います。上手くないエントリーですけども、私の言いたいことは伝わったと思います。


 なお、私は日本国憲法については「色々と修正が必要な部分がある」という考え方を持っています。一方で「それが96条改正からスタートか」と問われると、(全否定するつもりはありませんけども)ちょっとした違和感があります。「96条を改正するために96条を発動するのは自家撞着だ」なんていう議論をするつもりはありません。96条改正であろうと、その他の条項であろうと、憲法改正するということは日本にとって大きな出来事です。国民的に大きな議論が巻き起こるでしょうし、その結果、「改正96条が成立した後、具体的な改正案として何を提示するのか」というところまでの議論も行われるでしょう。


 であれば、そのキックオフが「ルールの変更」という手続き論ではなく、真正面から具体的な条項の改正にぶつかることで何が悪いのだろうかということなのです。簡単に言えば「一度でやってしまえばいいのに」ということです。