最近、とても気になることがあります。それは「日本には実はエーリッヒ・フロムが言った『自由からの逃走』の現象が生じつつあるのではないか。」ということです。


 普通に考えれば、自由を放棄するなんてことはあり得ないというのが進歩的であれ、保守的であれ、世界のスタンダードの史観です。人間の歴史というのは、どうやって政治的、宗教的な権威から逃れ、自由で独立した存在であるかを追求する営みであったというのは、多分正しいと思います。したがって、これは「自由への逃走」とでも言うべきものなのでしょう。


 エーリッヒ・フロムは戦間期のドイツについて、自由を与えられた人間が如何にそれを放棄し、ファシズムに走ったのかをかなり丁寧に分析しました。この「自由からの逃走」は大作なので私が要約できるような代物ではありませんけども、簡単に言うと「人間は外生的な要因によって自己実現が阻まれるとき、他人に対して攻撃的になり、結果として権威への従属と自由の放棄を選択する」、そんな感じのことです。


 ドイツ人は戦中期のインフレ、経済的な困難、政治的な行き詰まりの中で、その捌け口をナチスに求めました。当時の姿をyoutubeなんかで見ていると、偏にナチスに熱狂するドイツ人の姿を見つけることができます。独裁者に自己を同一化し、依存し、逆に自己の確立みたいな大きな理想を放棄する、これはドイツ人が人種的にそうであったということではなく、人間であれば誰にでも生じ得ることだろうと私は思います。


 エーリッヒ・フロムの著作の細かいところには入りませんが、今の日本社会の世相を見ていると、正に似たようなことが起きようとしているのではないかと不安になります。20年に亘る経済の停滞と先の見えない世の中の中で、社会全体にやるせない感情が渦巻いています。その中で、いわば権威的な手法で国民にアピールする人物が生まれてきています。勿論、日本は代議制の世の中ですから、世の決まりごとはある程度は間接選挙制の中で実現していかなくてはならないのですが、その為政者に過度に依存しすぎることは本来望ましい姿ではないように思います。


 その中で自分自身で自律的にあれこれ考えたり、動いたりするよりも、独裁者に強引に引っ張っていってほしいというマゾヒズムが生まれ、そのマゾヒズムと一見対峙するように見えるサディズムも実はやるせなき孤独感、無力感の中から他者への支配欲として生まれてくる、そうやってマゾヒズムとサディズムが同居するようなかたちになる、上手く言えてませんがそういう現象が日本にないだろうかと思っています。自分自身がマゾヒスティックになり、かつサディスティックな感情の捌け口がユダヤ人であった、この2つの現象を「孤独感、無力感、自己実現の困難さ」という視点で括って同根だと喝破したフロムの卓見は今でも生きています。


 解決方法は、エーリッヒ・フロムが詳細に分析していますけども、「自己実現できる世の中」、単純に言えばそういうことです。最後には生産的な世の中、人の幸福、成長が望める世の中、その実現の中に真の自由がある、当たり前すぎるくらい当たり前のことです。


 「分析は分かった。だからおまえは国政にいるんだから、そのために粉骨砕身やれ。」というお声が来ることは承知しています。私は学者、研究者ではありません。日本の世相の中に「自由からの逃走」の気配を感じるからこそ、今、我々国会議員が何をやるべきかと言うことを真摯に考えなくてはなりません。


 私は究極の自由主義者でありまして、個人としても常に「自由への逃走」を目指して39年間生きてきました。ただ、それがとても辛い所作であることはとてもよく分かります。人が自由であり、そしてあり続けることは難しいという前提に立ちつつ、その自由をどう社会全体として志向していけるのか、すべての政治家のテーマですね。


 こういうご時世だからこそ、もう一度読み直すべき歴史的著作だと思います(大作かつ難解なので骨が折れますけど。)。