日本の政治史の中で、幾度となく出てくる「首相公選制」についての議論。また、取り上げられておりますので、私の思うところを書いておきます。


 首相公選制と言っても、大きく分けて類型が2つあります。それは「議会の信任の有無」です。首相は公選制で選ばれるのですが、その後の組閣で内閣に対する信認を議会が行うか否かで、制度の結果はある程度変わります。信任を必要とする制度として有名なのは1992-2001までのイスラエルです。信任を必要しないものとしては、日本の地方自治体が近いと思います。勿論、大統領制ではありますがアメリカの政治制度も似ています。


 まあ、この制度は、公選で選ばれた首相と、同じく公選で選ばれた議会とが同じ方向を向いている限りにおいては何の問題もないのですが、首相を選ぶ力学と議会を選ぶ力学が全く異なるために、その間の調和が取れないことが多いということが一番の問題です。それも上記の2類型では、その問題点の発現の仕方が異なります。


 イスラエルで何が起こったかというと、選挙制度が小党分立を許す内容であったため、折角公選制で選ばれた首相が組閣で非常に苦労させられ、なかなか組閣そのものが進まなかったり、個別政策で不満な党が簡単に連立を離脱して、その結果、また多数派工作をやらなくてはならなくなり・・・、ということで首相の権限は強まるどころか、むしろ弱体化しました。当時のネタニヤフ、バラクといった首相は苦労していましたね。廃止する時は労働党、リクード双方が賛成したという事実は、イスラエル政界全体がこの制度に辟易したということだろうと思います。


 一般論として、議会の信任を求める制度とする場合は政党の結束力が高まります。政党として、組閣において高く売りつける必要があるからです。結果として、党議拘束的なものも強まってくるでしょう。そこも力学としてはとても重要なポイントです。


 日本を振り返ってみると、日本の政治風土の中では一定の勢力を持つ政党が5-6は必ず存在するでしょうから、その中で安定的な多数を確保する努力を継続的に求められます。党議拘束が強い政党をベースにすると、結果として議会に振り回される首相の姿が想像できます。


 では、議会の信任を求めないケースはどうかということですが、当然、首相の出身政党と議会多数派が異なることは大いに想定されます。そうなってくると、そもそも予算、法案が通らないということになるでしょう。


 大括りにして解決策は2つ。まずは組閣時にフランスの保革共存(コアビタシォン)に近い制度とすることですね。首相は民主党だけど、閣僚の多数は自民党から出すみたいな感じで首相と閣僚が別の政党から出てくることで何となく折り合いをつけるということです。コアビタシォン時のフランスの大統領の権限は著しく制限されるのと同様に、この時の首相は相当に権限が制限されるでしょう。


 もう一つは党議拘束を弱めてしまうことです。これが一番現実的でして、主要政党が党議拘束を弱めてしまえば、結果として案件毎に一本釣りで議会多数派工作ができるようになります。これはアメリカの制度に近いですね。つまり、アメリカで何故大統領と議会が完全に切り離されていても、それなりに回っているかと言えば、政治のサブカルチャーとして党議拘束が弱いということがあるからです。そのサブカルチャーがなければ、アメリカの制度は全くうまく行きません(党議拘束が弱くても、大統領はやっぱり苦労しているのですから。)。逆にイギリスのような議院内閣制で党議拘束が弱ければ政権運営はできません。 政治制度はどんなものであれ、それを支えるサブカルチャーによって可能になっているということを忘れてはなりません。


 首相公選制を唱える方はたくさんいますが、それは政党のあり方や政党内部のサブカルチャーを大きく揺さぶる効果があります。上記で述べたように「制度設計次第では(所期の目的に反し)首相の指導力が極限まで弱くなる」、「政党の縛りを弱くしないと首相公選制が上手く回らない」とする時、首相公選制を唱える論者は本当にそこまでの覚悟があるのかな、と各種論客の話を聞きながら思います。


 なお、私は首相公選制否定論者ではありません。首相が指導力を発揮しやすい姿を作っていくべきだと思っています。その時に政党のサブカルチャー的なものも変えるべきだと思っています。そんな中、首相公選制のポジティブなところだけを取り上げて、殊更に持て囃す風潮に疑問を持っているだけです。