唐突ですが、私が外務省に入ったのは1994年4月1日でした。直前まで髪が特殊なスタイルだったので、それを直前に修正してから入省式に臨んだことを思い出します。そして、同じく直前の3月28日には「退学届」を出しに行きました。自分の選択とはいえ、安田講堂を見ながら寂寥感が込み上げてきました。


 外務省に入った時は細川総理、羽田外相でした。そして、暫くすると羽田総理、柿澤外相、数ヶ月後には村山総理、河野外相になりました。


 その年の10月から私はWTO担当部局に振られました。ひたすら国会答弁の起案、協議とコピーの毎日でした。朝4時、5時はドンと来いの勢いでした。フラフラの思いで半蔵門線で通勤していたら、大学の同級生と出会って、無性に大学4年生である彼が羨ましくなりました。なお、当時、コピーは長くやると肌がコピー焼けすることを知りました。


 その前年の1993年12月15日に、細川総理がウルグアイラウンド合意(WTO協定)を「断腸の思いで苦渋の決断」で受け入れました。コメ市場の一部開放を伴う市場開放に踏み切った瞬間でした。1994年通常国会の予算審議では、野党の自民党はこの件で激しく細川総理を批判していました。


 そして、1994年臨時国会にWTO協定は村山政権の名の下で国会に上程されました。河野外相、橋本通産相、大河原農水相(農水次官OB)の布陣でした。特に大河原さんは農政のプロ、野党時代はウルグアイラウンド合意批判の急先鋒でした。


 この時に私が外務省WTO担当部局に在籍していたということです。今から思い返しても変な国会審議でした。ここまででご理解いただけると思いますが、ウルグアイラウンド7年半(1986-93)のうち7年は自民党政権、最後の半年と妥結時は細川政権、そして国会審議は自社さ政権です。色々な意味でねじれていた審議でした。新生党を始めとする野党は元々妥結した側ですから攻める力を欠き、大半は「何故、あの時反対したのに、あなた方(自社さ政権)は今、国会に出すのか。」みたいな質問がとても多かったですね。答弁する側も「いや・・・、あの・・・、立ち位置が変わりまして・・・」と言わんばかりで冴えませんでした。


 そこで編み出された理屈が「妥結に際して、細川政権は農業対策が十分じゃなかったから反対したけど、自分達は農業対策をしっかりやるから問題ないのだ。」というものでした。そんな理屈の中から生まれたのが、あのウルグアイラウンド対策費6年(1995-2000)で6兆円です。基盤整備に半分以上使われ、農水省構造改善局、農業土木関係者はウハウハになり、逆に農家は立派になった農地と引き換えに自己負担分で借金をこさえてしまいました。対策予算で全国に温泉施設がポコポコで出来上がったことも忘れてはいけません。WTO農業協定第20条には、根本的改革をもたらすように助成及び保護を実質的かつ漸進的に削減するという長期目標が進行中の過程であるといったことが書いてありますが、あの対策予算で何の改革が進んだのかを農水省と農水族は説明しなくてはならないでしょう。


 当時21歳でこれらの経緯を間近で見ていた緒方青年は、上司からの命でそのWTO協定国会承認の際の議事録を全部読みました。その時の議論と今のTPPの議論を頭の中で重ね合わせようとしています。重なるところもあれば、そうでないところもあります。最近のTPPに対する懸念の中には、「あの当時も同じようなことが主張されていたよな。」と思えるものがあります。名前は控えますが、とある議員が幾度となく「WTO協定で生協が潰され、食の安全が失われる」と激しく主張していたのをよく覚えています。


 その後、私は在外に出ますが、また日本に戻ってきて、2002-2004に再度WTO担当になります。課長補佐として、ドーハラウンドの立ち上げから初期の交渉をつぶさに見ました。さすがに役職が上がり、コピー機の機能も上がったのでコピー焼けはしませんでした。


 特殊な要素への考慮を求める日本の提案がジュネーブでどんどん外され、意外にも各交渉で(新参者の)中国提案がドラフトに残っていくのを目の当たりにしました。そんなドーハラウンド交渉がまだ妥結しておらず、交渉の大きな構図は米中対立的なところに帰結し、その中で日本は「農業の除外品目が6%なのか、8%なのか」ばかりを主張し続けるだけの存在としか見られていないことに思いを致すと複雑な気持ちになります。最近、ある外国の交渉官と話していて、「日本は除外品目の比率だけだろ」と言われ悲しくなりました。


 あえて、教訓めいたものを語るとすれば「交渉はパッケージ。個別分野で塹壕戦をやってはダメ。“Nothing is agreed until everything is agreed”なのだから、全体を見て利益の出し入れをする司令塔が不可欠。」ということです。まあ、これを言うと農水省から必ず「農業を犠牲にして鉱工業品、投資、政府調達を取りに行くつもりだ。」と批判されます。「交渉全体でバランスを取る」という一見当たり前のフレーズが日本では受け入れられず、「交渉全体でバランスを取り、農業交渉そのものでもバランスを取る」と言わないとダメなのです。ただ、これだと交渉毎に塹壕戦をやらざるを得なくなるのです。そのくびきをそろそろ取っ払わないと、いつまでやっても、日本は各個撃破されてしまうのです。


 これが外務省生活(11年3ヶ月)のかなりの部分を通商問題で食ってきた私の見る「今昔の差」です。どのようにお感じになられますでしょうか。