私は外交交渉という時によく思い出すのが、ガット・ウルグアイ・ラウンド最終版でのフランスです。当時の大統領は左派のフランソワ・ミッテラン、首相は右派のエドゥアール・バラデュールでした。いわゆる保革共存、コアビタシォンと言われる状態でした(日本的に言うと「ねじれ」です。)。


 当時はアメリカとECで合意することが交渉の最重要課題であって、アメリカはECの輸出補助金をガンガンに攻め立てました。1992年は大統領選挙の年でしたけども、決して交渉は選挙を理由に停滞しなかったですね。そして、1992年の12月にブレア・ハウス合意という農業分野での合意が成立しました。当時、アメリカの交渉権限との関係で1993年12月15日までに交渉を妥結しなくてはならないという切迫感があったので、一年前の米EC合意で交渉は終結に向かっていくかという期待感が国際的には高まりました(日本はまだコメで大揉めでしたけども、正直に言えば、交渉全体から見るとそのテーマは大きくはありませんでした。)。


 しかし、1993年3月の総選挙で勝って首相になったバラデュールはこのブレア・ハウス合意をひっくり返しにかかります。「1992年の欧州共通農業政策(CAP)で認められた以上の改革を強要される」という理由です。輸出補助金の削減が急すぎて、フランスの農産品の輸出に影響が出るということでした。米ECで既に合意していたにもかかわらず、バラデュールは果敢にこれにチャレンジしました。


 上記にもあったとおり、その年12月15日にまでは纏めなくてはならないのです。そのバランスを覆すようなこのフランスの態度はとても受けが悪かったですね。アメリカからは「再交渉は絶対に受け入れられない」という反応があり、「米ECが合意しないのなら、うちもパンドラの箱を開ける」といった動きが出てきかねない状況でした。日本も「米ECの合意がはっきりしない中では市場アクセスの議論が進められない」と言った主張をしていました。多分、ECの中でもフランスのわがままぶりは受けが悪かったと思います。事実上、「フランス対それ以外のGATT加盟国全部」みたいな構図であった瞬間もありました。


 その後、フランスは「農業を除外して合意しよう」とか、まああれこれと、時には愚にもつかないような主張まで織り交ぜながら、しかし最終的には1993年12月に入って第二ブレア・ハウス合意に漕ぎつけました。内容としては「既に倉庫にある2500万トンの穀物については合意の対象から外す」、「輸出補助金削減の基準年を1986-89の平均輸出量から1992年の輸出量に見直す」みたいな話が入ってきました。これだけだと何のことかわからないでしょうが、このちょっとした見直しで、合意実施期間(1995-2000)の6年間で、ECは追加的に800万トンの小麦、10万トン強のチーズ、44000トンの乳製品、36万3000トンの牛肉、25万3000トンのチキンを輸出補助金付きで輸出できるようになったとされています。


 当時、バラデュールは国内でヒーロー扱いでした。保革共存でしたけども、ミッテラン大統領はバラデュール首相を高く称賛していました。上記を読んでいただければわかるとおり「超ごり押し」の世界に入ると思います。自国の農業製品をダンピングして外国に売っていく手段をある程度確保したということで、あまり美しい話ではないのですけども、それでもこのなりふり構わずぶりは大したものだと思います。なお、当時の外相はアラン・ジュッペ、今のフランスの外相です。


 また、ここでは書きませんけども、この交渉最終版での韓国の金泳三大統領の動きも特筆されます。「コメの市場アクセスで日本よりも有利な条件を絶対に勝ちとる」ということで、結果としてコメの市場開放で先進国、途上国の分類を可能とさせ、結局それでコメの市場開放を日本より有利にさせたということがありました(今でも韓国はこの恩恵に与っており、WTO農業交渉では「途上国」を主張します。)。


 当時は日本は1993年7月の総選挙後の細川政権時代で必ずしも十分な体制で交渉に臨めなかったという背景があります。また、これもあまり書きませんがコメについての秘密交渉がマスコミにすっぱ抜かれたため、交渉がやりにくかったということもありました。米ECが交渉を進める中、日本が機動的に動けない条件があったのかなと思います。


 今日のエントリーで何が言いたかったかというと、国際交渉において国益をかけてなりふり構わずクソ頑張りするということがもしかしたらこれから必要になることがある、その時に常にお行儀よくやるだけが能ではない、ということです。