児童ポルノ法改正について、党内で真摯な議論が行われており、私は少し乗り遅れましたが途中から加わり、それなりに意見を表明しました(影響力があったかどうかはともかくとして)。


 このテーマは、えてして「厳罰派 vs 表現の自由派」の議論になります。私は基本的には「厳罰派」です。書き方が難しいのですが、あえて果断に書くと「(きちんと定義された)児童ポルノを(自己の意思を持って)入手し、喜んでいる人間の自由とそれを放置することによる社会的な危険性を比較すれば、あえて厳罰を持って臨むのが適当」ということです。


 表現の自由派の方の議論にも納得できるところはありました。「冤罪の可能性」については、たしかに事柄の性質上、逮捕されただけで社会的に抹殺されてしまう危険があるため、慎重な対応が必要というのは分かります。ただ、だからと言って、それは刑罰が要らないという理由にはならず、あくまでも刑罰の範囲を厳格に定め、かつ、手続法のレベルできちんと対応するということでしかありません。


 党内議論を細かく書くのはルールに反するのでやりません。私は大体こんな感じで考えています。


● 児童ポルノの定義をあまり緩めることには反対。定義の明確化はやるべきだが、それは緩める方向での明確化であってはならず、純粋な意味での「明確化」。

● 一般的な除外規定としてあり得るのは「学術目的」くらいで、ゆめゆめ「芸術目的なら児童ポルノは許容される」なんてことはあり得ない。

● 単純所持処罰については、意図を持って取得し、所持する行為は罰するべき、意図を持たずに結果として所持するかたちになった場合は処罰の対象としないが、それが児童ポルノであることを認識した段階で所持放棄をしない場合は何らかの措置の対象とする。本件は、有償での取得か否かとか、反復しての取得か否かといったというメルクマールで判断すべきものではなく、あくまでも故意の有無で判断すべきもの。

● 冤罪防止に取り組むため、必要であれば特別の訴訟法手続きを設けることも一案。


 一番難しいなと思ったのは、現行法における「性欲を興奮させ又は刺激するもの」という部分です。たしかにこれは内心の自由に係るところがあるので定義するのが難しいのです。最後はその蓋然性ということになるのでしょう。ちなみに、私の持論は「性的に人格障害を持っている人は、チラリズムに興奮を覚えることが多い」というものでして、例えば、5歳くらいの少女に(少し古いですが)パイレーツの「だっちゅーの」の格好をさせ、(性器は写していないものの)顔と胸の谷間だけを写している写真があるとしましょう。私はこれは児童ポルノと定義していいと思います。これは蓋然性としては、相当に「性欲を興奮させ又は刺激する」可能性が高いからです。そもそも論として、私は自分の娘のそういう写真を単純所持して興奮している人が近所にたくさんいたら恐怖感を覚えるでしょう。


 最後になりますが、私はこのテーマについて論じる人には「法律上のすべての目的語を『私の子ども』と置き替えてみること。」、かつ「どうにかして逃げ道を探りながら児童ポルノを見て楽しもうと思っている人の気持ちになって見て、精一杯の悪知恵を出してみること。」、この知的エクササイズをお勧めしたいと思います。観念論で色々と訴えてみるよりも、そういう作業をする方が遥かに健全です。