憲法96条、改正手続を定めた部分です。いわゆる硬性憲法といわれる根拠となっているものです。この96条を改正しようとする動きが超党派であります。非常に雑な言い方をすれば「改正しやすくするために改正条項を改正する」ということです。


 結論から言うと、私は反対です。しかし、誤解の内容に言うと、私は憲法改正に反対という立場ではありません。どんどん議論すべきだし、新たな社会の流れに応じて憲法改正がなされるべきであると思っています。その観点から憲法審査会規定が、最近まで参議院で存在せず、かつ衆議院においても委員の任命がなされていないことは、国民投票法の精神を損なうものであり、看過しがたいものがあると思っています。その点を押さえた上でのエントリーであることはご理解ください。


 また、「今の憲法は押しつけられたもの」といった主張から来る自主憲法制定論もよく聞きますけども、私はそういう前提では議論をしません。いずれにせよ、以下のエントリーはそういう自主憲法制定論とも無関係です。


 そもそも、憲法改正というのは何でも改正していいのか、ということについては結構な議論があります。制限がある、いや、無制限だ、色々な議論があります。ちなみにフランス憲法では「共和制(republique)」については改正できないと明示的に書いてあります。私は憲法改正には一定の制限があるという考え方を取ります。では、何が改正できないのかということですが、まず前文を改正するのはダメでしょう。そして、基本的人権とか、三権分立とか、日本国憲法の基本原理に当たるものについては改正の対象にならないと思っています。ここら辺までは大多数の方のご理解が得られると思います。


 さて、改正権についてですが、制憲時にその憲法の持つ権力を改正権の中に封じ、内在化させたという思っています。そして、その内在化された権力は時を超えて我々を拘束するものだ思っています。したがって、改正権そのものを改正するというのは制憲時に遡って、憲法そのものを否定する行為に類するものだと思うわけです。憲法そのものの中に「どんな改正でも認めることは秩序が不安定化するから、それを憲法の中で制限をかけようとした」という意思が不可分のかたちで内在化していると見れば、そもそも、96条の要件を緩和しようという考え方は出てこないと思います。


 こう言うと「歴史のある一点において存在した英知が、後世に生まれてくるであろうすべての英知に勝ると解釈するのはおかしい。その時代毎の要請があるではないか。」という批判があると思います。それ自体は正しい指摘だと思います。私は、だからこそ、その英知を結集して現行の96条の規定に沿って手続を進めればいいと考えるのです。「どんなにやっても試合に勝てないから、試合のルールを有利に誘導しよう」というのは、私のやっている柔道の世界でもよくあることですが、事、今の憲法のできた経緯、そして、その精神にかんがみれば最大の禁じ手でしょう。


 まあ、言い方を変えれば、96条改正というのは「自己否定」の世界なのです。96条そのものを否定するために、96条を使って改正するというのは、日本国憲法の自己否定ではないかと思えてなりません。そういうことをしてはいけないということです。96条改正派の方を傷つけかねないのであまり言いたくありませんが、あのドイツのワイマール憲法が潰えていった歴史を見る時、こういう「何でもあり」の世界に与することには相当な抵抗感があります。


 まあ、私は大学時代、芦部信喜、樋口陽一両教授の本で憲法を学んだ人間なので、もしかしたら、その影響が強過ぎるのかもしれません。あと、フランス語でもモーリス・デュヴェルジェという学者の本で憲法を学んだことがあり、その辺りも少し頭に残っているのでしょう。ある方からは「今の憲法学会は、戦後のリベラル派が社会の雰囲気を形成している時代に、憲法を専攻した方が多数を占めているから、その学説に囚われないようがいい」とも言われました。そうなのかもしれませんが、私は自分自身の判断として胸を張って、96条改正には乗らないようにしています。


 ただ、繰り返しになりますが、私は今の憲法の中身をすべてOKだから不磨の大典として扱うべきと言っているのではありません。改正すべきはする、という立場なのです。ただ、そこに至ろうとする道筋においては、今の憲法96条のルートを愚直に辿っていくしかないという見解を堅持していくだけです。