今、「個人通報制度」というものが議論に上がっています。非常にザックリ言うと、個人が国連の各種人権関係条約に基づいて、それぞれの条約の機関に申し立てを行うという制度です。


 社会権規約、自由権規約、女性差別撤廃条約、人種差別撤廃条約、拷問禁止条約、強制失踪防止条約、障害者権利条約、移住労働者条約といった条約にこの個人通報制度が設けられており、条約によっては選択議定書(条約)を受諾するというものもありますし、受諾宣言を行うというやり方もあります。日本は選択議定書を受諾していませんし、受諾宣言を行っているものもありません。上記の人権条約の中にはそもそも批准していないものもあります。


 受け入れた国においては、利用できる国内的な救済措置(例:裁判)を尽くすことを条件に、それでも救済が十分でないと思うのであれば誰でも通報する事ができます。その通報が受理され、審議された後に条約機関はその通報に対する見解を出します。 見解には拘束力はありません。ただ、その後も見解に対するレビューが行われます。


 私の感想は「趣旨たるや良し。ただ、多分、日本の政治、社会状況にかんがみれば相当に政治的に使われるだろう。それが適当なのかは疑問。」というところです。伝統的な国際法においては、個人が国際法の主体となるケースは限定的でした。しかし、社会の変遷に伴い、現在は個人が国際法において主体となることが増えてきています。それ自体は条件さえ整えば、いいことだと思います。


 まず、問題点となるのは、国内で判決が確定したものと反する見解が出たらどうするか、補償、賠償を求めるような見解が出たらどうするか、裁判の最中に見解が出されたらどうするか(国内救済措置が尽くされることが前提ですが例外的に救済措置の途中でも通報することは否定されていない)、法律改正を求める見解が出たらどうするか、・・・といった問題が提起されています。どれもこれも正当な問題意識だと思います。


 あと、私が気になるのは「政治的な利用」です。具体的な例を出すのはあえて避けますけども、この制度を非常にショーアップして、国内にフィードバックをさせようとする手法が相当に出てくるでしょう。そういう「ガイアツ」の手法は、私はあまり好きではありません。勿論、この制度における見解については法的拘束力はないわけですが、日本人の悪しき「外国信仰」みたいなものにかんがみる時、「国際的に『権威のある』機関からこんな意見が出た」ということに弱いですよね。


 日本はきちんと法制度が整備されており、かつ、司法制度も整っています。あたかも、そこに信頼を置けないが故に「ガイアツ」に向かうかのような思惑があるのであれば、それは厳に排するべきものだと思います。国内制度の中できちんと処理していけば足りるように制度構築を考えるのが本筋です。


 もう一度、繰り返します。私の思いは「趣旨たるや良し。ただ、使い方を間違えると変なことになるし、そうなる蓋然性があると思う。」というくらいのところです。