ルモンドを読んでいたら、4月11日がアドルフ・アイヒマン 裁判開始から50周年だと書いてありました。日本ではあまりアイヒマンの事を知る人はいませんが、欧州においては忘れられない裁判です。どういう人なのかということは上記をクリックしていただければ分かります。


 国際法を勉強すると、イスラエルのモサドがアルゼンチンでアイヒマンを捕え、そしてアルゼンチン政府に隠して慎重に本国まで移送したことについて、国家主権との関係で判例研究をすることが多いです。まあ、ありとあらゆる法体系がそれを是とするはずもないですけど、ユダヤ人のその執念を法に照らして判断することはそもそも適切ではないのでしょう。


 アイヒマンに限らず、歴史上、組織の一員として残虐行為に携わった人物というのは、爾後会ってみると「極めて普通のなんてことない人間だった」ということが多いみたいです。アイヒマン自身が残した「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉にも、それがよく表れているように思います。組織人として忠実に命令を執行しただけ、ということなのでしょう。


 このアイヒマンという人物に宿った狂気は、実は誰にでも宿り得るものなのではないか、といつも思います。社会全体が、組織全体がある特定の方向に向かっている時、その流れに身を任せることが一番楽であることは日常の体験の中にもよくあることです。「自分は言われたとおりやっているだけ」だというある意味での無責任感を突き詰めると、人間はこのアイヒマンのところまで行ってしまうのだということです。


 1930-40年代のドイツ人の精神構造は、今の我々のそれと比較して優劣を付けることは多分難しいと思います。すべての条件が整えば、現代社会でもアイヒマン的なものはあり得るのではないかと、私はいつも危惧しています。ちょっとしたトラウマがコンプレックスを生じさせ、最終的には、何か大きな権威の歯車として何でもやれてしまうところまで走ってしまう・・・、何となく我々の傍にも似たようなケースは結構ありそうです(スケールは違いますが)。


 50年前に世界を震撼させたアイヒマン裁判。ユダヤ人虐殺は風化させてはならない人類上の悲劇であることは言うまでもありませんが、歴史の一時期に特異なかたちで生じた狂気というふうに矮小化することは適当ではないんだろうと感じます。