別に日本を取り巻く情勢から逃げるわけではありませんが、久しぶりにアフリカ・ネタです。


 今、コートジボアールで大統領選挙が行われています。第一回投票が終わったところです。この国、日本ではあまり知られていませんが、フランス語圏西アフリカの雄・・・だった国です。かつては英語で「Ivory Coast」とか、日本語でも「象牙海岸」とか呼ばれていましたが、ある時から「うちの国はCote d'Ivoireであって、それ以外の変な呼び方はしないでほしい」という主張を始め、今では日本語でも「コートジボアール」が正解になっています。


 この国は西アフリカの中ではカカオ、コーヒー、石油等で豊かな国になります。最大の都市アビジャンは高層ビルの建ち並ぶ大都会です。少なくとも10年以上前、同じく西アフリカのセネガルに住んでいた私にはアビジャンがとても輝いて見えたものです。なお、かつてはたしかスケートリンクがあったと聞いたことがあります(が、さて今はどうかは分かりません。)。


 昔、コートジボアールの人と話した際、私が「日本ではチョコレートと言えばガーナだ。」と言ったらとても憤慨していました。私からは「『ガーナ・チョコレート』は覚えやすいけど、『コートジボアール・チョコレート』だと覚えにくくて売れなさそうじゃないか。」と追い打ちを掛けたら、更に怒っていました。


 この国は独立後、長らくウフェ・ボワニという大統領が統治していました。セネガルのサンゴール大統領と並んで、フランス語圏アフリカの二大巨頭と言っていいでしょう。隣国を見てみたら、独裁でムチャクチャやっていたマリのムーサ・トラオレ、「豊かな従属より貧困ではあるが自由を選ぶ」と言ったら、フランスから本当に貧困に突き落とされ、共産勢力に走ったギニアのセクー・トゥーレ等、あまり可愛くない勢力がある中、ウフェ・ボワニとサンゴールは安定勢力だったことは確実です。


 アフリカには民主主義の段階によって類型分けが出来ます。私は英語圏アフリカがあまりよく分からないので、フランス語圏アフリカのみで分けてみたいと思います。多党制に順調に移行したセネガル、順調ではなかったが、それなりに多党制になっているベナンやマリといった国と比べると、本来、その先頭に立っていなくてはならないコートジボアールが最後尾に位置づけられていることは残念でなりません。


 誰が何処で失敗したのかということですが、私はウフェ・ボワニ死後の政権移行プロセスに失敗したことが大きかったと思います。巨人ウフェ・ボワニが亡くなった後、大統領になったアンリ・コナン・ベディエにはコートジボアールを統治していく能力がなかったように思えてなりません。能力に欠け、かつ狭量な政権運営が非常に目につきました。ウフェ・ボワニの下で首相を務めたアラサヌ・ドラマヌ・ウアタラの方がIMF官僚の経験もあり、多分、国の堅実な運営には良かったのではないかと思います。


 1995年の大統領選挙で、ベディエはどう考えても筋の悪い「コートジボアール性(Ivoirite)」という概念を作り出して、ウアタラを大統領選挙から排除しました。あの辺りが、この国の転落のきっかけになっていったように思えます。ウアタラは、元々北部の国ブルキナファソのボボデュラソという町出身で、たしか母親がブルキナ人でした。そこを取り上げて、両親がコートジボアール出身でない人間は大統領になれないという規定を設けて、ともかくウアタラを排除しまくりました。当時、「こんなことやっていると、ろくなことにはならんぞ」と感じたものです。


 ちょっと話がそれますが、アフリカで面白いのは権力者の夫人が作る「財団」とか「NGO」の存在です。大体、ろくなものがありません。権力者の基盤固めをやっているだけです。私がセネガルにいた際もディウフ大統領の夫人が総裁の「エリザベート・ディウフ財団」というのがありました。何のことはないただの利権団体でして、よく大使館に「エリザベート・ディウフ財団」名でディウフ大統領に得点を稼がせるだけの援助の依頼が来ていました。たしか、私が「そんな変な企画にうちの大使館は乗らない」と言って追い返したら、大統領府から大使に抗議が来て、結果として私が怒られたことを思い出します。コートジボアールでも、同じようにベディエ夫人、ウアタラ夫人がそれぞれインチキ臭い財団を作っては金集めをやっていました。


 私がセネガルから帰朝したのは、1999年の6月末でした。パリから東京に戻ってくる飛行機に、公式実務訪問で当時のベディエ大統領が乗っていたのを思い出します。その半年後にゲイ参謀総長によるクーデターでベディエ大統領は放逐されてしまいます。ただ、ここで更にコートジボアールにとって不幸だったのは、このゲイという軍人が政治的野心を持つ人物だったと言うことです。隣国のマリ(1991-1992)、ニジェール(1999-2000)で独裁政権を倒した後、軍人が綺麗に引いて民政移管をしていったのと比べると、このあたりもコートジボアールという国にとっては不幸でした。


 2000年に大統領選挙をやって当選したのは、それまで反植民地の闘士、反権力の闘士で、私のイメージでは「コートジボアール政界の端の方で騒いでいた」バグボ現大統領でした。当初は軍事政権がゲイの当選を宣言したのですが、民衆蜂起が起こり、ゲイもこれまた亡命させられてしまいました。バグボ大統領も有能とは思えない御仁ですけども、ベディエはダメ、ゲイもダメ、ウアタラは長年のIvoirite騒動で政治的にダメージを受けており、消去法的に運良く選ばれたような感じがあります。


 結局、その後色々あるのですが、北部でブルキナ・ファソを後背地として反乱軍が出てきて、隣国を交えての内戦状態がずっと続いている状態です。特に北部のブルキナ系との確執は取り返しがつかない所まで来ているようです。バグボ大統領の能力不足もあるでしょう。ただただ、権力闘争に長けた大統領を抱えているのも不幸だということです。バグボは南アのムベキやリビアのカッザーフィと良好な関係を築く等、まあ、権力維持のための能力は大したものがあります。更には、ベディエが導入し、バグボが継承したIvoiriteという概念はこの国をボロボロにしています。ウフェ・ボワニが地域分裂を防ぐために、首都を南部のアビジャンから中部のヤムスクロに遷都したりして上手くやってきたのに比べると、もう取り返しがつかないくらい南北対立がひどくなっています。


 そんな中、先日待ちに待った大統領選挙が行われました。本来は2005年でバグボ大統領の任期は切れており、もっと早く行われるべきものではありましたが、まともに大統領選挙が行われるまで5年の月日が費やされました。ちょっと想像できないかもしれませんけども、アフリカでは大統領選挙に割かれるエネルギーというのは「国が崩壊するかどうか」というところまで行きます。一回一回が命がけです。今回の候補はバグボ、ウアタラ、ベディエでした。


 第一回投票で残ったのがバグボとウアタラ。ベディエは長年の恩讐を乗り越えて、第二回投票ではウアタラを支援すると言っています。ただ、ウアタラが勝ったら勝ったで、今度は南部の方がすんなりと納得はしないはずです。バグボが勝てば、勿論南北対立は続きます。いずれにせよ、茨の道がこの国には待っています。そもそも、結果次第では国が更にボロボロになる可能性だってあるわけです。


 別に結論めいたものはないのですが、政策判断を間違えると西アフリカのトップリーダーが最下位まで転落していくというケースでした。国のリーダーにしっかりとした人物がおらず、かつ判断を間違え、民族対立を煽った結果、資源も農産物も豊富な国が転落していったわけです。コートジボアールの現状を見ていると、「あーあ、まだこんなことやっているのか」と悲しい気持ちになります。大統領選挙の第二回目投票が恙なく終わり、少しでもまともな方向に動くことを望むばかりです。