フランス、ベルギーで、公共の場における「ブルカ」の禁止について議論が進んでいます。ベルギーでは法律が成立しましたし、フランスでも近々法律が成立するでしょう。まあ、法律の内容は「公共の場で顔を隠すようなこと」を禁止するということですが、対象となるのは事実上、イスラム女性が顔の全体を覆う「ブルカ」くらいだろうと思います。


 さて、これが日本で同様の法律ができるとしたらどうなるかなと思います。ハードルは結構高くて、「思想・良心の自由」、「信教の自由」、「表現の自由」という精神的自由に属する論点が出てくると、日本の違憲審査はグーンとハードルが高くなります。まあ、相当に対象を絞り込んで、ブルカ禁止でなくてはならないという理屈付けが相当にしっかりしていないと、日本の裁判所では「違憲判決」が出てくるでしょう。ちょっと視点を変えて、「犯罪防止」の観点で捉えなおしブルカ禁止を検討することはできますが、それとて軽々に禁止が正当化できるようにはならないでしょう。日本の違憲判断は結構厳しいのだということを感じます(ただ、実際には違憲判断は殆ど出ませんが。)。多分、日本でこの手の法律を制定するのは難しいでしょう。


 何度か書きましたが、この件に関しては「信教の自由」とか「政教分離」の捉え方が重要になります。イスラム側からすると、「イスラムを信じて、ブルカを纏うのは信教の自由」ということになるでしょう。恐らく、日本の精神的自由の捉え方もこの方向に傾くでしょう。ただ、欧州では国家権力や宗教権力のくびきから逃れる戦いをしてきた経験があり、その結果、世俗国家の道を歩んでいる国があり、そういう国ではブルカを纏う女性の姿が逆に「信教の自由(というか、そこから発生する政教分離)」に合致しないという考え方になるものです。こういう発想はあまり日本にはありません。


 これは単なる理屈の問題ではなく、近い将来、いや現代において、日本社会に痛烈に突き付けられるようになるでしょう。日本社会はブルカを受け入れられるか、ラマダンを受け入れられるか、インド人街が街中に出現することを容認できるか・・・、日本人とは根本的に発想、宗教観の異なる人達が多くなってきた時の、日本社会の耐性が問われる機会がどんどん増えていくでしょう。少し前にアメリカ社会で大きな議論になった用語ですが、日本社会は「メルティング・ポット」を指向するのか、「サラダボール」を指向するのか、それともどちらも指向せず内向きに生きていくのかということになります。


 まあ、日本人は「メルティング・ポット」を指向することはできないでしょう。仮に指向したとしても、日本的なものに完全に統合されるかたちでのメルティング・ポットであり、人種のるつぼが総体として新たな文化を生み出していくようなことは到底考えられません(それはアメリカでも無理でした)。昨今の世相を見ていると、サラダボールですら無理ではないかと思います。それくらい、日本人という民族は今、内向きになっています。


 私は日本は望むと、望まないとにかかわらず、「外に開かれた社会」を志向せざるを得ないと思っています。それ以外に、日本が国際社会で生きていく活路はないでしょう。しかし、現実には日本は逆の方向に向かっているような気がします。最近、私が持っている最も大きな危惧の一つです。