とある問題意識から、最高裁に概ね以下のような問い合わせをしてみました。どういう問題意識かはあえて述べません(が、分かる方には分かると思います。とあるホットイシューについてです。)。


1. そもそも、上級裁判所としての最高裁の判決において、理由の中で主たる部分と傍論というものが分かれていると認識しているか。

2. 分かれているとする場合、判例法としての効果(先例拘束性)が異なるのか。


 結論から言うと、最高裁のお返事は「お答えできない」というものでした。私の理解が正しければ「たしかに判決の理由のところで、何処からが傍論かということは明示されていない。学説では『その判決を導き出すのに不可欠でない部分は傍論』ということも言われているが、何処までが『傍論」なのかとか、先例としてどう採用するかとかは最後は個々の裁判官の判断になる。」ということでした。


 日本の裁判制度でも、判決は先例としての効果はあるわけですが、英米法程の厳格な「先例拘束性」が認められているわけではありません。あくまでも、裁判官の独立の下で先例をどう採用していくかということが判断されるという建前はしっかりと貫かれているとのことでした。


 まあ、実体的には、最高裁判決の理由の部分で述べられていることについて、下級審や後世の最高裁がチャレンジすることは相当に困難でしょうから、判決全体として事実上の拘束性はあるのだと思いますが、表向きにそう言えないだけの裁判官の独立性というものは厳格に維持されているようです。


 多分、そういう返事になるだろうとは思っていました。もう少し、本件は思考回路を詰めていく必要があります。