題は最近、ある援助関係者から言われたことです。ありていに言うと「断れない裏金要求」のことです。私も同じ問題意識をかねがね持っていました。とても、とても簡略化して説明します。
日本の援助は基本的に「要請主義」ということになっています。何かと言うと「相手から要請があったから、その要請を受けて援助を行う」ということです。何故、そうなっているかと言うと「押し付けの援助にならないように」という、日本なりの配慮からです。非常に正しいアプローチに見えるでしょうが、ここがくせ者なのです。
というのも、途上国の大半は、自国でカチッとした要請案件を仕立てあげることが困難です。しかも、日本の援助はタイド(ひもつき)なので(なお、私はタイドを批判しているわけではありません)、ある程度日本の企業が受けることができるような仕様で要請をしないと、そもそも、援助案件として採択されにくいという事情もあります。
そうすると、何が起こるかですが、今の日本の援助のうち、かなりの部分は「日本人」が要請書を作成しています。外国政府が日本政府に出す要請書なのに、その要請書を日本人が作っているというのは奇異に映るでしょう。この日本人は誰か、ということになると、結局、援助案件を受注したい商社だったり、コンサルタント会社だったりします。
この「日本人」の方々は、当該外国政府にその案件を持ち込んで、「この案件をおたくの政府の正式プロジェクトとして、日本政府に要請してはもらえないだろうか。」と依頼するわけです。ここに冒頭の「裏金」の話が生じます。悪魔の囁きとでも言うのでしょうか、当該外国政府高官から「そうか、そうか、それならば少し勉強してくれないか。」とばかりに裏金を要求されるわけです。変な話ですが、そこでその高官の了承がないと、折角自分が苦労して作ったプロジェクトが政府間の要請案件にならず、実現を見ないわけですから、泣く泣くそういう裏金要求に応じざるを得ないということになるわけです。
こういう裏金は法律で禁じられています。10年くらい前にOECDで外国政府に賄賂を贈る行為を禁じようという動きが高まり、日本も法改正をしました。日本は厳しい姿勢で臨んでいて、見つかったら「お取り潰し」に遭いかねないくらいのことです。それでも、まだ横行しているようです。
勿論、日本として、何もしていないわけではなくて、例えば援助案件を策定する早い段階から、両国政府間で協議をして、一緒に援助案件を作っていくということもやってはいるのですが、それでもこの手の裏金を排除することはできていません。ただ、日本政府側はこういう裏のプロセスがあることをある程度黙認しているようなところもあります。途上国が自分で案件を作ることが困難であることを知っているのに、カチッとした立派な要請書類がやってくれば、誰だってすぐに「ああ、誰かが背後にいるのだな。」ということには気づきます。しかし、そこは「(日本側としては)与り知らない話」ということで見ないようになっています。
なお、私が外務省にいた際、制度的にこういう裏のプロセスを推奨するような「文化無償」という援助がありました。決して、文化無償自体が悪いのではなくて、援助を出すプロセスそのものの中に業者と相手政府の癒着を促すような仕組みが内在されていました(細かく説明しようかと思いましたが、後日に譲ります)。今、どうなっているのかは知りませんけどね・・・。
いずれにせよ、こういう裏金は必ず援助額に跳ね返ります。それは勿論、我々の税金です。今のODAの中には、実はこれだけではなくて、ありとあらゆる魑魅魍魎がうごめいて、その中にムダが生じています。援助が作成されるところから、実際に決まって、お金が出され、そしてプロジェクトが終わる、その全体のプロセスを一つ一つ細かく洗って、裏金が生じにくいような制度設計をすべきだと思っています。
まだ、具体的な案がないものの、大枠で言えば、私は「要請主義」には限界があるという見解です。上から目線からも知れませんが、日本政府が求めるようなハイレベルの要請書が作れる国は僅かです。であれば、「押し付け援助をしない」→「要請主義」という建前を根本的に覆して、こちらで殆どすべてのメニューを用意した上で、援助を出す相手国と相談するスタイルの方が、より現実に近いし、変な裏金も減るでしょう。ポイントは、援助に関する相手国の重要な意思決定の場には、必ず日本国の外交官なり、お役人が前面に出て絡むようにする、ということです。「どの案件を日本に要請しようか」という意思決定の時に、商社の方やコンサルの方が(裏の場で)前面に出るからたかられるわけですから、そこを変えればいいという発想です。
非常に簡略化して、問題意識を書き連ねました。援助関係者の方からお叱りが飛んでくるかもしれませんね。いつも、書いていることですが異論・反論、大歓迎です(お返事が書けていませんが、頂いているご指摘にはいつも啓発されていることを申し述べます。)。