今日、早速、お役所を怒鳴りつけている議員の方を見ました。個人が特定されるようなことはしませんが、この「お役所を怒鳴りつけること」については色々と感ずるところがあります。


 この「怒鳴る」ということについて、ある程度正当化される場合というのは、明らかにお役所に責任のある事例で、お役所がそれを怠っていたことで国民、企業、行政等に不利益を被らせたというものです。具体例は挙げませんが、そういうケースはままあります。


 今日、取り上げるのはこれとはちょっと違います。


 これまでは自民党の部会であろうと、民主党の部会であろうと、お役所が呼びつけられては政策の説明を求められ、それに対して時折、議員が罵倒したり、怒鳴ったりして、政策への不満を表明することがありました。隣に副大臣がいようと、政務官がいようと、その方々が矢面に立つことはなく、皆で役所をボコスカ叩きまくるわけです。ひどいケースになると、副大臣、政務官までもが部会の場で(自分の部下たる)役所をボコスカ罵倒しているのもありました。


 私はこういう文化を変えさせたいと思っています。こう書くと、「なんだ、緒方は当選するや否や、役人側に立つのか」と思われる方がおられるかもしれません。違います。私の意図は、全く逆なのです。


 実はこの「お役所が説明をして、政治家がそれを怒鳴りつける」という構図自体が、既にお役所依存の体質なのですね。そもそも政府の政策を政党側に説明するのがお役所の官僚だということ、そして、その不満を一身に受けるのもお役所の官僚だということ自体が、お役所の権力の源泉の一端を担っているということに留意しなくてはなりません。政策説明において、官僚が政党側からの矢面に立ち、すべての反応を受け止めるということは、官僚は政治的な役割を担うところまで来ているということです。そして、更に付け加えれば、怒鳴られるというのはつまりは「ガス抜き」なわけでして、これまではそんなことまで官僚がやっているわけです。簡単に言い換えれば、「怒鳴られる」ことの対価として、官僚はこれまで政治的な力を持ち続けてきたわけです。


 お役所が本当に怖いと思うのは「怒鳴られる」ことではありません。その程度のことでビクビクする程、官僚は柔な存在ではありません。むしろ、怖いのは「怒鳴られるような立場にすら立たないこと」です。政策や法案の対政党説明を政治家(副大臣・政務官)が担い、そこで政党側から不満があれば、その政治家が矢面に立ち、必要があれば、政治家同士の議論の中で政府原案を変更する、そこにお役所の介在する余地はありません。ここでは、お役所の役割は、政府原案を作るまでの補佐的役割に限定されます。


 これがやれれば、逆にお役所は震え上がるでしょう。「怒鳴ってすらもらえない」ことが何を意味するか、お役所はよく分かっています。しかし、ここまでやっていくことが日本の政治文化を変えることに繋がると私は思います。ただし、これを実現しようとする場合、お役所に入る政治家は非常に勉強しなくてはなりません。政府が打ち出す政策について、真の意味で一元的に政治家が責任を負うということは、その政策に精通して、対外的に(最終的には対国民で)説明できる必要があるということですからね。


 とどのところ、「脱官僚依存」というのは、言い換えれば「これまで役所が負っていた政治的な意味合いのある責任の部分を、これからは政治がきちんと正しいかたちで担うようにする」ということだと思っています。それは、実は政治の側にとって辛い選択なのです。「脱官僚依存」というのは、役所を怒鳴りつけることではなくて、怒鳴りつけないことである、そういう結論に私は至っています。