今日はちょっと感情的なエントリーかもしれません。
私は「教育を受ける機会の平等」ということへの思い入れが強いです。それは私の出自から来るところが多いです。
私は少なくとも裕福な家庭の生まれではありません。しかし、県立高校→旧帝大→中央官庁という経験をさせてもらうことができました。国費ではありますが、外国に派遣してもらい、普通であればできない経験をさせてもらいました。これはすべて「教育を受ける機会」が与えられたからだと思っています。
少なくとも、私の世代までは「機会」は平等に提供されていたように思います。大学に入った際、周囲を見て「ああ、裕福な家庭の生まれが多いのだな」と思いました。当時、私の大学の親の平均年収は1100万円くらいでした。私の両親の年収はその半分にも満たない水準でした。更には、外務省に入った際、周囲を見て「もしかしたら、1100万円なんて水準ではな(く、もっと高)いかも。」と感じました。それでも、私には機会が与えられていたはずです。それを当たり前に思っていました。
しかし、最近見ていると、私が享受していた「教育を受ける機会の平等」が当たり前でないのではないかという事例によく出遭います。「親の収入の関係で高校を中退した」というケースに出遭います。私の地元では本当に多いです。先日も中小企業の社長さんに、その件で「国政を目指すならそういう現実をもっと知っていなきゃダメだ」とお叱りを受けました。本心では高校で勉学に励みたいのに、それを許さない環境がある、私はそれが残念で残念でなりません。
私が今、こうやって国政を目指す立場まで漕ぎ着けることができたのは、すべて「教育を受ける機会」があったからだと、当時の日本の制度、社会環境に感謝をしています。私は大学、外務省に行き、裕福な家庭の子女を見る度、「おまえらに負けてたまるか」という思いを持つことができました。しかし、今、その前提条件すら覆されつつあります。その「負けてたまるか」という思いを持つステージに立つことができない学生の存在に出遭うと、そういう社会に憤慨します。
私は「結果の平等」はあまり好きではありません。しかし、「機会の平等」に対する思いは人一倍強烈です。それが今の自分を支えてくれているからです。かつて、均質性の高い社会の中では「機会の(名目上の)平等」を保障していれば良かったのかも知れませんん。しかし、今は「機会の(実質的な)平等」を確保することが政治の役割なんだろうか、それは「結果の平等」と似通ってくるのだろうか、何処までが政治に求められているのだろうか、そんなことを沈思黙考しています。
このあたりは、アメリカの思想家ジョン・ロールズの「正義論」に詳しいです。かつて、読んだことがありますが、今一度勉強し直す時なのかな、選挙終わったら読みなおしてみようと思っているところです。
選挙も近付いてきたせいか、感情的なエントリーですね。細かいところは突っ込みどころ満載ですが、意を汲んでいただければ幸いです。