「核の密約」ということでエントリーを書いたら、とある有識者の方から「アメリカが『持ち込みについてはコメントしない』というあいまい戦略を取っていることについては、冷戦時代、ソ連がどう認識していたのかがポイントだ。」という指摘を頂きました。鋭いポイントです。


 つまり、「核抑止力」というのは、「核兵器が実際にあるかどうか」も大事ですが、「相手が『実は日本には核兵器が持ち込まれている』と認識しているかどうか」というのが更に大事です。核兵器というのは、決定的なダメージを与えうる兵器なので、「持っている可能性」だけで効果を発揮します。つい最近までの北朝鮮をめぐる動きも「北朝鮮に核兵器はあるかもしれない」と日本を始めとする関係国が思っているだけで、十分に核抑止力になっています。イスラエルも、イランもそうでしょう。


 もっと言えば、「相手が『実は日本には核兵器が持ち込まれている』と思っていると、日本が思っているどうか」というところまで検討していく必要があります。この連鎖はエンドレスでして、日本と相手側の認識を定数で置くことができれば等比数列になるので、この核抑止力の効果というのはある程度数式で計算していくことができます。ここに、「日本自身が核兵器があることを前提にした戦略を構築しているかどうか」、「核兵器が持ち込まれていると日本自身が認識しているかどうか」といったところを加えていくと、かなり精密な戦略論が展開できるでしょう。


 これはゲームの理論の世界になってきます。経済学の世界では、「期待」という言葉でよく出てきますね。相手の認識と自分の認識を絡め合わせながら、どう行動するのがいいのかというところを考えていくのは知的にスリリングな作業です。


 ということで、冷戦時代、ソ連は日本への核兵器の持込についてどういう認識を持っていたのか、ということは検証題材としてはとても興味深いものになるでしょう。「実は持ち込まれている」と認識した上で、ソ連側として色々な核戦略を展開していたのかどうかということですね。冷戦終了後、そろそろ20年になります。歴史の語り部が少なくなってきていますので、早いところ当時の関係者から話が聞いておくことが大切になってきます。なお、上記で述べたようにもう一段踏み込んで「ソ連として『日本には核は持ち込まれている』と思っている、と日本が思っている」かどうかというところまで行くと、日本はそういう認識は持っていなかったでしょう(持つことを許される状況にないでしょう)。


 こういう神経戦的なゲームの理論のさわりを理解するものとして、先日、エヴァンストニアンさんから「戦略的思考とは何か」という名前の本のご紹介がありました。アメリカのエール大学でゲームの理論を教える際の導入として使われる本です。実は、私は大学時代にこの本を買って読んだことがあります。とても知的に興味深かったので、外務省入省試験の際「最近読んで興味深かった本」というところにこの本の名前を書きました。


 しかし、「戦略的思考とは何か」という同じ題で、外務省OBの岡崎久彦氏が書いたこれまた有名な本があります。私は当時、その本を知りませんでした。こういう時、私は常に間が悪い人間でして、同じ受験者から「ああ、君もあの岡崎さんの本を読んだんだ。どう思った?」と聞かれて意味不明だったり、更に悪いことには、面接試験で「あの岡崎さんの本を読んでどう感じたか?」と聞かれて、「いえ、その本については読んだことがありません」と答えたりと散々でした。


 それはともかくとして、ゲームの理論的視点から、冷戦当時、日本への核持込の可能性についてソ連がどう認識していたのかという検証、進むといいなと思います。現代性の非常に高いテーマですよね。