議員の世襲制限についての議論が与野党で盛り上がってきています。定義にも依りますが、自由民主党で4割程度、我が民主党にも1割程度の世襲議員がいると承知をしています(正確なところは知りません)。


 麻生総理は記者会見で「自分が提起したわけでないから是非を聞かれても分からない」、「そもそも、世襲の定義が分からない」といった返事をしています。これはさすがにズルいように思います。細部に入って行って、定義が明確でないから答えないといったことをやっていたら、多分殆どの質問には答えが出ないでしょう。普通であれば「定義についてはあれこれあるけど、大枠としては・・・」という返事をすべきですね。まあ、本音は「やりたくない」ということなんだろうと思っています。


 親族に政治家がいない身から見ると、やはり親が地域で有名な政治家だったりすると、「地盤・看板・カバン」の3つの「バン」でかなりゲタを履けるというのはあるんでしょう。決して羨ましいとは思いませんが、ただ、それで他の有為な人材の政治への思いが閉ざされるようなことがあると違和感を感じます。元総理、元大臣の息子みたいな人が楽に当選して行っているのを見ると、私なんかは逆に負けん気に火が付きます。


 この議論で私は変だなと思うことがあります。それは「世襲制限の議論は職業選択の自由を害するものであり憲法違反」という論調です。たしかに、立候補制限は憲法で認められた職業選択の自由に制限をはめるものです。しかし、それがすぐに憲法違反に直結はしないんじゃないかなと思っています。


 世襲とは違いますが、例えばアメリカの大統領は2期8年、韓国の大統領は1期5年で制限がかかります。では、アメリカや韓国で(大統領選挙について)職業選択の自由が保障されていないという議論があるでしょうか。そうではありません。長期政権の弊害を勘案し、任期に制限がかかることに正当な理由があるという判断があるわけです。そこでは「長期政権の弊害」と「任期制限」との利害を比較衡量しているわけです。


 世襲制限の話も基本的には同じようなことだと思います。「できるだけ多くの人間に国政への可能性を開く」とか、「同じ一族が議員を占めることで地域の社会・政治構造が硬直化するのを防止する」といった利害と、「職業選択の自由」の保障というものを比較衡量する必要があるのではないかと思います。そういう議論なしに「職業選択の自由」が金科玉条のように扱われることにはとても違和感があります。どうしても「職業選択の自由」を理由に「違憲」を言いたいのであれば、論者はもう少し理論を精緻化させる必要があるように思います。


 憲法理論上は「職業選択の自由」は経済的自由権に位置づけられています。ただ、このケースについては、「経済的」自由権と呼んでいいのかは疑問です。多分、精神的自由権と経済的自由権の中間あたりにあるでしょう。憲法理論の流れを説明することはあえてしませんが、私はこのケースは「利益衡量の基準」を当てはめるくらいのところにある自由権だと思っています(憲法理論の違憲審査基準についてはココ を参照ください)。


 そして、これは第一義的には憲法上の問題というよりも(勿論、違憲の可能性が排除されているわけではないのですが)、まずは立法政策の話なんじゃないかという気がしています。アプリオリに違憲ではないと思うので、あとは制度設計でどの程度のことをするのかという立法政策の次元で、上記の「利益衡量の基準」はクリアーできるように思います。そうでないというのであれば、どんな制度設計をしても絶対に「世襲制限をすることのマイナス」が利益を上回り、憲法上過剰な制限であることを立証しなくてはなりません。それは多分無理でしょう。


 「世襲制限」の議論が上がる度に、短絡的に「憲法違反だ」というふうになるのはとても雑ですね。「何故、憲法違反なのか」までを説明する政治家に出会わないのは残念です。