映画「レッド・クリフ」が二部作で好評を博しています。第一部は見に行きましたので、そろそろ第二部にも行こうと思います。私の近親者が「せきがんの戦い」と言うので何のことかと思ったら、「赤壁の戦い」のことでした。


 さすがに良く出来ている映画だと思いました。「ああ、中国の人には赤壁の戦いというのはこうイメージするのだ」と良い勉強になります。


 ただ、私はそもそもこの赤壁の戦いの描かれ方自体があまり好きではありません。というのも、恐らくは「三国志演義」をベースに描かれているような気がするからです。前提として、劉備玄徳が善玉で曹操孟徳が悪玉で描かれています。既に指摘されていることですが、三国志演義は三国志のストーリーを1000年以上後の明朝時代に小説として焼きなおしたものです。事実と違う部分がかなり含まれています。なお、日本でよく読まれる横山光輝の三国志は完全に三国志演義がベースです。


 劉備は漢の高祖帝の末裔ということで漢朝復興を旗頭に掲げています。これ自体がまず、私には眉唾モノに見えています。漢の高祖帝が皇帝になったのが紀元前202年、劉備が活躍していた時代は紀元後200年前後です。つまり、400年の時間差があるわけです。そこまで時間が開くと、そもそも「末裔」という概念自体がとても希薄化しているはずなんですね。我々の感覚で言うと、現代に「徳川」とか「豊臣」という名の方が、自分は「末裔である」と宣言して、その復興をやっているイメージです。そもそも、劉備という人物が真の意味で漢朝の末裔なのかどうかすら、私は少し疑っています。


 三国志演義では諸葛亮孔明が唱えた「天下三分の計」ということで、魏、呉、蜀の3つに天下を分けたということになっています。別に間違いではないでしょう。たしかに面積だけ見れば、魏、呉、蜀の支配していた地域はかなり均等に近いものがあります。しかし、蜀の国というのは、大半が山岳地域であり、そもそも蜀の国自体「巴蜀」と呼ばれていました。「巴」という文字は、ヘビを連想させるものであり、クネクネしたものを指していたはずです。決してポジティブな意味合いのある言葉ではありません。首都成都は今でこそ大都会ですが、後背地はチベットの山岳地域であり異民族が多く住む地域だったはずです。まあ、北京近くが生まれの劉備、荊州で育った孔明にとっては、かなり僻地感が強かったでしょう。


 そもそも、劉邦が項羽から漢中王に任命されて派遣された南鄭は、当時流刑地的な扱いの場所でした。それでも、蜀の中ではかなり有力な都市でした。それくらい蜀というのは寂しい場所で、とても「三分」とは言えなかったように思います。私の直感的な印象は、魏、呉、蜀の国力の差は7:2:1くらいじゃないかなというものです(何の根拠もありません)。ただ、そうであるが故に、蜀という国を守り続けることができた孔明という人物の才覚には驚嘆するばかりです。


 私は、どうしても三国志のストーリーの中では曹操孟徳という人物に共感を持ちます。レッドクリフの中では極悪人として描かれています。しかしながら、歴史を普通に見ていけば、天下は既に漢朝にあらず、その中で出てきた有能で野心ある人物だということ以外の何物でもありません。むしろ、歴史の中では曹操がメインストリームであり、劉備なんてのは傍流も傍流という感じでしょう。日本では三国志演義の影響が強く、かつ判官贔屓の文化があるので劉備を正義で捉える傾向が強いですが、私はいつも「ちょっと違うんじゃないかな」という気がしています。


 曹操というのは、意外に遅咲きの人間でして、董卓討伐軍に集ったのが35歳。今の私と同じくらいの年ですね。「乱世の奸雄」と評された人物です。「我、かくあるべし」と言うにはあまりに毀誉褒貶の多い人物ではありますが、少なくとも三国志演義で描かれるような悪役一辺倒というのは違うと私は思いますね。


 そうやって見ていくと、赤壁の戦いは少し相対化して判断してくべきなんじゃないかなと思ったりします。たしかに曹操は負けます。ただ、魏が天下を統一していく際の一つの通過地点だと見る中で捉えると、ちょっと違った評価の仕方もあるんじゃないかなと抽象的な思いを持つわけです。