日本ではあまり取り上げられないものの、今、欧州ではローマ教皇ベネディクト16世が非常に批判をされていて、大問題になっています。報道を見ていると、一般紙が非常に教皇批判を繰り広げる一方で、保守系や教会系の新聞が教皇擁護に回っていています。


(全然関係ないのですが、ベネディクトという名前はフランス語ではブノワとなります。同じ名前でも言語によって全然違うのがとても印象的です。昔、フランス語で本を読んでいた際、「ドイツ皇帝ギヨーム一世が・・・」と書いてあって、「そんなヤツいたっけな」と思っていたら、なんと「ヴィルヘルム一世」のことを指していたと分かって苦笑した記憶があります。)


 一つ目は、ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)の存在を否定した司教の破門を、ベネディクト16世が撤回したということですね。欧州ではホロコーストを否定する勢力が一定の勢力を持っています。総じて極右勢力と呼ばれる人達です。そういう勢力に与したと見られているわけです。


 二つ目は、中部アフリカのカメルーン訪問時に「コンドームはエイズを解決する決定打にはならない」という発言をしたことです。エイズの猛威が荒れ狂うアフリカでそういう発言をすれば、反発を受けるのは当然です。


 まあ、ベネディクト16世は昔から超保守派という評判でしたから、私はそれ程驚きませんでした。ホロコースト否定主義者の破門撤回については、どういう思想的背景があるのかは分かりませんが、コンドームについては生命倫理観の観点からカトリックが反対していることはよく知られていることです。


 ホロコーストについては、有名なドイツ大統領のヴァイツゼッカーによる「過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」という言葉に極言されるのではないかと私は思います。日本にも「歴史問題」がありますね。私の見解を非常に、非常に簡単に纏めると「後世に生きる日本人として、先の大戦で日本が周辺国に行った行為の中でお詫びと反省をしなくてはならないものがある。我々はその感情をきちんと持ち続けなくてはならない。ただし、現在、周辺国から日本に対してなされる過去に関する批判の中には、根拠が薄弱なものが時折ある。それについては、きちんと反論していくべし。」というものです。少し具体論に降りると、植民地支配や侵略については真摯にお詫びと反省の気持ちを持つべきだが、例えば、南京事件の被害者が「30万人」と言われると「さすがにそれは数字が大きすぎる」と思いますし、日韓基本条約で解決したはずの種々の請求権の話が蒸し返されているのを見ると、とても違和感を感じます(それは請求権の元となった出来事に対してお詫びと反省の気持ちを持たないということでは決してありません。)。


 それと同じことだと思います。欧州の極右勢力は、色々と細部をとらまえてホロコーストを否定しようとします。しかし、欧州に生きる者は、大局としてその事実を否定すべきではなく、かつ歴史的記憶として後世にきちんと語り継いでいかなくてはならないでしょう。それはローマ教皇であっても当然そうです。そういう意味で、真意は分かりませんが「ホロコースト否定主義者に甘い」と思われるような動きをするのは私は適当ではないと思います。しかも、カトリックはナチスに対して融和的だった(少なくとも反対を明確に表明しなかった)という批判も存在するだけに尚更です。


 あと、コンドームについてですが、まあこれは「生命倫理」と「生命そのもの」どちらを取るかということじゃないのかなと私は単純に考えています。アフリカでエイズの猛威の一端に触れたことがある身としては、「じゃあ、対案を出しなさい、エイズ防止のための対案を」と言いたくなります。何となく、このカトリック教会によるコンドーム反対論というのは、先進国から途上国を見下ろすような目線を感じます。私の目線が歪んでいるのかもしれませんが、少なくとも私はアフリカでエイズで死なんとしている方に「あなたは夫婦・婚姻というものについて正しい倫理観がなかったことが良くなかった」みたいな台詞を言うことはできません(カトリックの人もそうは言わないでしょうけど、理屈を貫けばそういうことになります)。


 ガリレオが正しかったと認めるまで、350年掛かった組織です(しかも、ベネディクト16世は過去にガリレオ裁判を肯定したことがあります。)。いつの日か、ローマ教皇がエイズ防止のためにコンドームを認める日が来るかな、いや来ないかもな、そんなことを思います。


 まあ、日本にはあまり関係がないことではあります。いつも思うのは、無視できないくらいローマ教皇の発言は政治的にも影響力があるんだよなということですね。そして、そのローマ教皇の主義・主張の中には、ちょっと現代社会から見ると「?」と思えるものがあります。信仰深い方にこういうことを言うと怒られますけど、政治的な影響を有する発言についてはできるだけ相対化・客観化して見ていくという心の持ち方が必要なんだろうと、私は思っています。