アフガニスタンのジャララバード周辺で、ペシャワール会の伊藤さんが殺害されました。痛ましい事件です。アフガニスタン復興のために汗を流す同世代の人がこのようなかたちで殺害されることを決して許すことができません。


 今回の事件を知って、ちょっと思い出したことがありました。ただし、以下に書くことは如何なる意味においても伊藤さん殺害とのリンケージを見出そうということではありません。あくまでも限られた私の経験を語るだけです。


 私は2001年春と2002年冬にアフガニスタンに行ったことがあります。アフガニスタンではカブールのみの滞在でした。その際、ちょっと時間があったので街中で買い物をしました。色々と面白かったのですが、その中でも衣料店でアフガニスタンの人が普通に着るような衣服とターバンを買い求めました(今でも持っています。)。そして、面白半分にそれを纏って、街に出ようとした時のことでした。運転をしてくれていたアフガン人から注意がありました。


「緒方さん、止めといた方がいい。ハザラ人に間違われるから・・・。」


 これだけでは何のことか分からないでしょう。アフガニスタンにはハザラ人と言われる人種が、人口の10%程度います。このハザラ人、顔が非常に東アジア的(モンゴロイド)なのです。この「ハザラ」という言葉は、ペルシャ語で「1000」を意味します。ジンギスカンが征西に出て、このアフガニスタンの地までやってきた際、1つの部隊が10×100人の隊列で構成されていたことに起源があります。ハザラ人は、アフガニスタンのみならず、パキスタンやイランにもかなり居り、概ね「自分たちはジンギスカンの末裔だ」と任じています。また、ハザラ人はアフガニスタンの中では例外的にシーア派であり、そういう意味からも少数派的な扱いをされています(逆にハザラ人は、シーア派のイランと非常に近い。)。


 このハザラ人、歴史的に(アフガニスタンの主たる民族である)パシュトゥーン人から迫害の対象となってきました。19世紀末には暴動を起こして、その結果ハザラ人大虐殺が起こっています。元々はそれなりに広範な地域に住んでいたのですが、こういう迫害の結果、今ではハザラジャートと言われるアフガニスタン中部の山岳地帯(バーミヤン遺跡のある辺り)に集中して住んでいます。


 ソ連侵攻時代は、ハザラジャートは比較的戦闘が少なかったようです。たしかにハザラジャートのある地域は、そうそう大挙して車両で行ける地域でもありません。今でも道路は多分大して整備されてないんじゃないかと思います。ソ連撤退後、群雄割拠の時代、ハザラ人勢力は影響力拡大を狙いますが、結局当時の政権からも重んじられることはありませんでした。タリバーン時代にも結構な虐殺が起こっています。つまりは、ハザラ人に対する蔑視、迫害という基本のところはあまり変わっていないということです。


 そういう背景があって、東アジア系の顔をした私がアフガン人と同じ格好をするとハザラ人と間違われ、カブール市内であっても不測の事態に巻き込まれないから止めとけ、という助言があったというわけですね。勿論、私は素直に助言を聞きました。


 まあ、そんなことを思い出しました。繰り返しますが、上記の話は伊藤さん殺害と結び付けようとするものではありません。現地に溶け込み、現地の人と同じ目線で活躍することの重要性は、よく分かっているつもりです。