トルコという国で、今、宗教と世俗というテーマが問われています。


 人気の高い政権与党であるAKPが解党命令を裁判所から出されようとしています。今のエルドアン政権はイスラム色の強い政権と看做されている一方で、EU加盟交渉の道筋を付けたということ等から非常に人気があり、先の総選挙では得票率が47%ということで非常に支持されているようです。


 今回の解党騒動のきっかけとなったのは、エルドアン政権が大学でイスラムの象徴である(女性の)スカーフを認めるような憲法改正をしたことがあります。日本では想像できないでしょうが、トルコという国は国民の大半がムスリムである一方、国家としては世俗国家であることを国是としています。そして、その世俗国家であることの最後の番人が軍と司法なのです。そして、この世俗性の防御ということについての拘りは我々の想像を超えるものがあります。世俗性を守るためには軍はクーデターも辞さないという歴史があります。今回のスカーフ許可は、公共の施設に宗教性を容認するということで、軍や司法が反発しているということみたいです。


 憲法裁判所では11票のうち7票が賛成すれば、エルドアン首相、ギュル大統領、35人の議員、党幹部等が公民権停止を命じられます。日本では考えられないでしょうが、かつてイスラム色の強い福祉党のエルバカン首相はこの命令で政治生命が急速に制限されたことがありました。報道によれば、AKPは解党され、エルドアン政権も崩壊する可能性が出てきているとのことです。欧米は「民主的プロセスで選ばれた政権をこのようなかたちで崩壊させるのは民主主義に反する。そんなことではEU加盟は認められない。」といった懸念を持っています。また、エルドアン政権が崩壊するとトルコ内政は混乱の局地に陥るでしょう。ただ、私が想像するに、そんな懸念はトルコの司法や軍の考慮対象ではないでしょう(まあ、もともとエルドアン政権は軍から非世俗的ということみなされて関係がよくなかったのですが。)。


 この憲法裁判所の審理の結果について予断することはしませんが、「信教の自由」ということについて色々と考えさせられることがあります。日本では信教の自由というと「どの宗教を信じてもいい」ということで理解されていますね。しかし、ここではそういう理屈とは違った意味で信教の自由ということが問われています。トルコでは、オスマントルコ時代にイスラムが社会発展のくびきになったことから、ケマル・アタテュルクが国是として世俗国家を掲げたというのが非常にザックリとした説明になります。ここでは「イスラムを信ずる自由」ではなくて、「イスラムから離れる(イスラムを信じない)自由」ということなんです。


 西欧やトルコでは信教の自由がこういう文脈で使われることがあります(むしろ多いです)。日本でも首相、首長等が神社等に公費で玉ぐし料を出す、出さないという時の議論がなされますが、それと似ているところがあります。


 ここで思ったことがあります(以下は色々な考え方の方がいると思いますので、今回は導入としての問題提起に留めています。過剰反応が出がちなテーマですがコメントは冷静なものをお願いします。)。現在、靖国神社は宗教法人です。かつての靖国神社法案ではその宗教性を打ち消すような内容のものが国会に提示されたことがありますが、少なくとも可決されませんでした。靖国神社には多くの戦争犠牲者等が祀られていることはよく知られていますね。そこで、「いわゆるA級戦犯」が合祀されたことをきっかけとして、「自分は先祖が靖国神社に祀られてほしいと思っているが、ただ『いわゆるA級戦犯』と合祀されるのは嫌である。」という方が出てきたとしましょう。ここで「靖国神社に祀ってもらわない自由」、「靖国神社の宗教性から解き放ってもらう自由」は保障されるべきだと考えますか。単なる「ろうそくの火は一緒になったら、二度と切り離すことはできない」といった、時折使われる(ものの、私にはちょっと浅薄に見える)論拠を超えて、信教の自由という視座が必要だと思っています。今の日本ではそういう議論が欠けているように思えてなりません。


 この件はあれこれと悩んでいます。そして、極端に振れがちな世論の流れに懸念を持っています。