日本の財政を考える時に、いつも気になって仕方ないのが「予算の単年度主義」です。これは単純に言えば「その年度の支出は、その年の収入で行う」というようなことだと理解しています。


 これについては色々な議論があることは概ね知っています。明許繰越、国庫債務負担行為、継続費といった例外的な措置が設けられていることも分かっています。ただ、今日はちょっとそういう話を離れて非常に大雑把な印象論で書いてみたいと思います。


 年度末になると、公共工事が増えるといった現象を経験したことのない人はいないと思います。私の住む北九州でも、大体にして年度末が近づくと国道3号線、10号線、199号線、200号線あたりで非常に混雑します。「去年もここらへんで工事してなかったか?」といった思いすら抱くことがあります。これは実は予算の単年度主義によるところが大きいのです。私がいた外務省でも似たようなものでした。ODAのサイトを見ていただくと分かりますが、1~3月にドドドッと援助案件が決まっていきます。「単年度主義」の下では年度当初に貰った予算はきちんと使わないと、上記のような例外措置を除けば国庫に返さなくてはいけなくなるということと、予算を余らせると次の年度(正確には次次年度)の予算査定で削られる材料になるので、頑張って3月31日までにすべてを終わらせようとするわけです。


 そうしてくると、予算消化が自己目的化するような現象が自然と出てきて、「使うために使う」みたいな発想になって税金の無駄遣いが生じてしまうのです。現在の「単年度主義」は、年度毎に国会できちんと審議し、きっちりと収支をはっきりさせるという意味において、その利点を否定するつもりはないのですが、それにしてもこの予算の単年度主義がどれくらいの無駄を生み出しているかは検証に値すると思います。


 壮大な実験になりますが、仮に複数年度で予算を組んだとしましょう(ここでは2ヶ年度で予算を組むとします)。私が想像するに、1年目の年度末には多分公共工事が目白押しになることはないと思います。もっと言えば、1年目の年度は総じて公共工事関係は低調になる可能性が高いです。そして、2年目の年度末にドドドッと余った予算を使うということになるような気がします。それでも無駄の排除ということにはなりませんが、少なくとも1年目の年度末に予算消化がなくなるので、単年度×2に相当する予算を割り当なくても回って行くんじゃないかなどという素人考えが浮かびます。2ヵ年予算にして、これまでの単年度の予算×1.5~1.8くらいの予算でやらせてみたらどうなるかなと、いつも思っています。そこで仮に1年目の年度末に、今の年度末ほどの規模の公共工事が行われなければ、今のシステムにおいてはやっぱり何処かに無駄があったということの証明になるような気がします(「そうではない」という反論が返ってきそうですが)。


 では、この「単年度主義」、何処に源泉があるのかを見てみました。これは根源には憲法があります。


第86条 内閣は、毎会計年度の予算を作成し、国会に提出して、その審議を受け議決を経なければならない。


 これが単年度主義の根本であって、そこから会計法等の各種法律が整備されているわけです。ここで思ったのが「本当にこの憲法の規定で『複数年度予算』が絶対に不可能か?」ということです。読みようによっては、単年度主義でない道も探れそうな気がします。ただ、今、検索してみたら国会で閣僚が「日本では単年度主義を採用してまして・・・」と何度も答弁をしているので、政府の立場としてはそうなのでしょう。単年度主義を覆すには憲法改正が必要なんですかね、やっぱり。


 では、憲法改正の話題が最近喧しいので自民党、民主党の案で、そのあたりの取っ掛かりはないかなと思って調べてみました。簡単に言うと、自民党の憲法改正案では、現行86条について、3月31日までに暫定予算すら成立しない時の手当が規定されていますが、やはり単年度主義が貫かれています。民主党の提言では、首相が複数年度にまたがる財政計画を作って国会に提出するということが書いてありますが、基本は単年度主義が前提になっているようでした。


 国会で無駄遣いを追及するのであれば、「予算執行のうち1~3月に執行したものは全体のどれくらいあるか」ということを聞いてみて、単年度主義がもたらす幣について明らかにしていってはどうかなとぼんやり思います。誰か質問主意書でも出さないですかね、このネタで。